ウージーの雑(な)文

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2013.12.14
12月の万葉の会は「吉野の道 宮滝・菜摘」だった。11月のコースだった奥吉野と同様、個人的に何度か来た処だが、万葉集という視点で巡るのもまた楽しいにちがいないと思い、参加致しました。最初に訪れたのは歴史資料館。なんと、館長さんの興味有る沢山のお話を聞くことができました。以前個人で来た時には望むべくもないことで、万葉の会様様であります。次に向かったのは桜木神社。前に参拝した時よりましな写真が撮れましたので、いずれアップしたいと思います。
資料館から神社に向かう途中の吉野川にかかる橋(柴橋)に、フェンスが設置されていた。以前は無かった。これでは写真が撮れない。と思いきや、何カ所かに覗き窓が設置されており、そこから撮影は可能だった。(それに気づくまで、腰をかがめ欄干の隙間から撮しておりました。)掲示もあり読むと、ここから川にダイビンクして死亡した事故が平成22年だったかにあり、それを防ぐためにフェンスを設置したとのこと。「ここからダイビング?そらあかんやろ。」思わず声が出た。宮滝周辺は岩が多く川幅が狭くなっている。目標は狭く、流れは速い。そんな無謀な人間のために、景観が損なわれ、町だか県だかの予算を使わなければならないなんて。ネットでちょこっと調べたら、周辺でダイビングして亡くなった人は一人ではなく、平成13〜22年の10年間で10人にのぼるという記事には驚いた。ハインリッヒの法則を適用すると、どれだけ沢山の人がダイビングして、死亡に至らずとも負傷していたのか想像できる。
菜摘周辺は初めての訪問である。飛鳥時代には、すでに「菜摘」という地名があったそうで、歴史ある素敵な名前のついた場所を歩くのもまた楽しい。(地元の方のお話では、この道を義経街道と呼んでいるとか。)川沿いの細い道に面して華篭神社、十二柱神社もある。「菜摘の花篭【はなかご】神社」だなんて、なんとかわいらしい名前なんだろう。

今回お近づきになれた万葉歌

千鳥【ちどり】鳴く み吉野川の川の音【おと】の 止む時なしに 思ほゆる君(6−915)(車持朝臣千年)

年のはに かくも見てしか み吉野の 清き河内【こうち】の 激【たぎ】つ白波(6−908)(笠金村)
宮滝・夢のわだ

宮滝・夢のわだ

2013.11.22
警察官になった夢を見た。100人近く参加している会議で、新しい拳銃を使ってみないか、と提案があり、同僚が手を挙げた。その拳銃は、ケロッグだかフロッグだかその様な名前だった。ところがその同僚は、同じ拳銃を使っていた追跡中の犯人に撃たれて死んでしまう。会議で、同僚の死の原因が報告された。同じ種類の拳銃なので性能差は無かったが、零コンマ何秒の差で犯人が早撃ちだった。その時同僚は指を痛めていて、いつもの様に早く撃てなかった。等、等。会議に疲れて家に帰った。2階の自分の部屋に入ったら、なんと友人のH君がいるではないか。H君とは30年ほど会っていなかった。弟もいて、二人で登山の計画をしていたという。私も加わって旅行の計画(登山から旅行に変わった?)を続けたのだった。

目が覚めてから、夢について考えてみた。夢に出てきた拳銃はたぶん、「ヘックラー&コッホHK4」だと思う。最近読んだ村上春樹の「1Q84」で、主人公の一人青豆が、敵に捕まった時の自殺用として入手した拳銃である。同僚が指を痛めていた件は、私自身昨日剪定をしていたとき、指の関節を何かにはさんだ様で、今日の朝起きた時は腫れて指が曲がりにくくなっていた、それが夢に出てきたのだろう。さてH君の件だが、30年も経てなぜ弟と一緒に夢に出てきたのだろうか。彼は登山はしなかった。一緒に旅行もしなかった。過去に彼の夢を見たことなどあっただろうか。

2013.11.17
11月7日の万葉の会は「奥吉野の道」。コースを確認したら過去に何度か個人的に行ったコースだったので、欠席と連絡した。(バスの予約が必要な時は、事前に出欠を役員さんに報告することになっている。)相棒のFさんから「行こうよ。」と誘われ、紅葉が綺麗かも知れないと思ったので、参加すると連絡を入れ直した。近鉄橿原神宮前駅から奥吉野までバスである。登らなくてよいのだ。金峯神社に向かう途中に展望台があったが霧で遠景が見えない。そして、やがて雨が降ってきた。西行庵へ向かう途中に紅葉の美しいところがあったが、片側が崖で手摺りを持って傘をさして、足場の悪い濡れた傾斜のきつい道を数珠つなぎに下っていたので、残念ながら写真撮影は出来なかった。雨が上がった後の、今回の紅葉自己ベストショットは以下の2枚です。それにしても、撮影できなかったあの紅葉、美しかったなあ・・・

今回お近づきになれた万葉歌
大和には 鳴きてか来【く】らむ 呼子鳥【よぶこどり】 象【きさ】の中山 呼びそ越ゆなる(1−70)(高市連黒人【たけちのむらじくろひと】)

神さぶる 磐根【いわね】こごしき み吉野の 水分山【みくまりやま】を 見れば悲しも (7−1130)
吉野山の紅葉 吉野山の紅葉

2013.10.30
10月の万葉の会「平城京南の道」を、滑り込みでご報告です。近鉄桜井駅から、JR桜井線に乗り換え北に向かう。JR桜井線は万葉まほろば線とも呼ばれていて、万葉の会にはうってつけの線だ。ひょっとしたら、私、JR桜井線に乗るのは初めてかも知れない。沿線には大神神社、箸墓古墳、崇神天皇陵等があるが、いつも車かバイクで行ってた。帯解【おびとけ】という色っぽい名前の駅をすぎると、京終【きょうばて】という普通には読めそうもない駅があり、そこで下りた。最初に行ったのが大安寺。ご住職のお話を聞き、仏像を拝観した頃には、小雨もあがっていた。境内での昼食休憩時間の間に一足早く参拝したのが、先日アップした八幡神社でした。(八幡神社は今回のコースに含まれておりました。)このあと、昔市場のあった東市跡(辰市神社)、富本銭が発見された場所のある九条公園、西市跡などを廻った。富本銭は日本最古のお金だそうだが、私が習った日本最古のお金は和同開珎だった。学校を卒業する前と後の時間を比較すると、後の方がはるかに長くなったので、仕方のないこととは思う。もう一つ、習った事と異なったのが、三重県は東海地方に分類されることだ。習った時は近畿地方で、近畿地方の隣は中部地方であった。富本銭は実害無いが、地区の分類は企業の営業域に関連してくるのだ。大阪支店に情報を発信したら、返事が名古屋支店から届く等のことがある。名古屋はまったく土地勘が無い。話がそれました。

10月にお近づきのあった万葉歌
あをによし 寧楽【なら】の京師【みやこ】は 咲く花の 薫【にお】ふがごとく 今盛りなり (3・328)(太宰少弐小野老朝臣)

西の市【いち】に ただ独り出でて眼並【めなら】べず 買ひにし絹の 商【あき】じこりかも(7・1264)(作者不詳)
西の市に一人で買い物に出かけた。よく吟味もせずに絹を買ったら欠陥品だった。
よく吟味せず結婚した相手が欠陥品だった、という意味にも解釈できるのだそうです。下の写真左、西市跡にこの歌の碑があります。

 ←西市跡の場所
西の市跡

西の市跡
薬師寺を望む

西の市跡近くから薬師寺を望む。東塔は覆い屋で見えず。

2013.10.27
9月の万葉の会「四日市の道」を、遅まきながらご報告です。今回のコースで私が最も興味を引かれたのは、久留倍官衙遺跡【くるべかんがいせき】だった。(写真右)

 ←久留倍官衙遺跡の場所

日本書紀に、壬申の乱のおり大海人皇子が「六月二十六日の朝、朝明郡【あさけのこおり】の迹太川【とおかわ】のほとりで、天照大神を遙拝された。」との記述がある。遙拝をされた場所の候補地はいくつか上がっている。現在は北勢バイパスが視線をさえぎっているが、高台にあるこの遺跡の場所からだと、伊勢方面を望遠するのに適しているだろう。

また、続日本紀の天平十二年(740年)十一月条のくだりに、朝明郡に聖武天皇が到達した、との記述があるそうだ。役所の遺跡と考えられているこの地に聖武天皇が宿泊した可能性も考えられるとのこと。

9月にお近づきのあった万葉歌
河口【かはぐち】の 野辺【のべ】に廬【いほ】りて 夜の歴【ふ】れば 妹【いも】が手本【たもと】し 念【おも】ほゆるかも (6・1029)(大伴家持)

天皇【おほきみ】の 行幸【みゆき】の随【まにま】 吾妹子【わぎもこ】が 手枕巻【たまくらま】かず 月そ歴去【へに】ける (6・1032)(大伴家持)

新婚ほやほやの大伴家持が、聖武天皇の長期出張に付き合わされて、一緒に寝られない嫁さんが恋しいとぼやいております。
久留倍官衙遺跡

2013.10.24
昨年11月から、水彩画を始めて約1年が経過した。最初に描いたのが神社の絵だった。神社には木は付き物だが、どの様に木を描いたらいいのか分からず、ただ緑色を塗っただけだった。上手く(あくまでも自分比)描けたらHPにアップしようと、神社をテーマに選び取り組んだのだったが、そんなに甘くはなかった。くやしくて、2枚目も同じテーマで描いたのだが、1枚目より進歩した(あくまでも自分比)とは思ったが、HPにはアップ出来なかった。再び神社を描こうと決めたのは今年の8月だった。テーマは、たたずまいが大好きな、依那古神社の杜。(依那古神社は「近くの神社・遠くの神社」にアップしてます。)おもいっきり木を沢山描かねばならないが、あえて挑戦することにした。17枚目の作となるが、昨年よりかなり進歩した(あくまでも自分比)と思えたので、その絵をHP(トップページ)にアップ致しました。

2013.10.17
昨日の朝、7時前頃だったと思うが、二重の虹を見た。二重の虹なんて、たぶん今まで見たこと無かったと思う。さらに、一本の方は根本まではっきりと見えていた。根本までの距離は、私から約1km位の処に思える。虹の根本には宝物が埋まっているという伝説があったような・・・。いや、子供の頃読んだ童話の記憶かも知れない。運転中だったので見た時間はほんのわずかだったが、貴重な体験をした。

2013.09.29
ユーチューブをうろついていたら、偶然フランシス・レイの「雨の訪問者」があった。なつかしく聴いた。フランシス・レイのレコードを持っていて、その中に「雨の訪問者」もあったので若い頃よく聴いていた。そして、この映画も見た。小学校の同級生だったSさんとデートした時、彼女が映画にさそい、彼女の選んだ映画館に入って見たのが「雨の訪問者」だった。僕は名張に引っ越していて、彼女はずっと大阪に住んでいて、やはり彼女の方が大阪の地理にくわしく、食事をした場所も彼女が選んだのだった。主演はチャールズ・ブロンソン。この頃のチャールズ・ブロンソンが一番かっこよかった。マンダムのコマーシャルに出ていたのもこの頃だったと思う。高校生の頃、映画音楽のドーナッツ盤を買っていた。サウンドトラック版にこだわっていた。「鉄道員」「ヘッドライト」「女王蜂」「ブーベの恋人」「男と女」「禁じられた遊び」「シェルブールの雨傘」等等。思いつくまま検索しなつかしく聴きました。「女王蜂」以外は、TVで映画も見た。昔「鉄道員」のサントラを聴いていた時、親父が、「この映画若い頃見た」と言っていた。親父自身、事務職だったが鉄道会社に勤めていた。「雨の訪問者」と同時上映していたのが「哀しみのトリスターナ」。ヒロインはカトリーヌ・ドヌーブで、先に書いた「シェルブールの雨傘」にも出演している。「雨の訪問者」の監督はルネ・クレマン。こちらも先に書いた「禁じられた遊び」や、音楽もよかった「太陽がいっぱい」の監督でもある。「禁じられた遊び」は悲しい映画と聞いていて、なかなか見られなかった。小さな子供が悲しい思いをする映画は、苦手である。昔、松岡きっこが音楽を聴いただけで、涙を流していたのを思い出す。「蛍の墓」も一度見たが、もう二度と見るまいと思った。

2013.09.21
約20年ほど前も、体重を減らすため、今と同じコースを歩いていた。当時は夜の9時以降、週に2〜3回位のペースだったと思う。三日坊主にならないため、今と同じようにExcelに歩いた記録をとっていた。歩いた日、歩いた距離だけではなく、宗谷岬から西海岸を南下して歩いていると仮定して、道路地図から距離を拾い出して累計し、今、利尻・礼文が近く見える辺りなどと妄想して記録を付けていた。この前、ここのトンネルが崩れたとニュースで言っていた、とか思い出したり・・・ しかし、これらの記録は古いパソコンと共にどこかに消えた。まあ重要な記録ではなかったから、バックアップもしていなかった。そのような記録をとっていたことを、当時年賀状に書いた記憶がある。「夏泊半島を初めて知りました」とか、「現在○○まで歩きました」とか。しかし、三日坊主ではなかったものの、秋田県辺りまで歩いて、歩くことをやめたようだ。たしか八郎潟は通り過ぎていたはずだ。
そんなことを思い出したので、再び1年前から歩き出し、歩行距離を付けているExcelの記録に、同じ様なことをやってみた。県道の距離も書いてある古い地図を引っ張り出し、区間距離をExcelに打っていったら、現在歩いているのは松前半島の辺り、となった。1年ちょっとで累計819kmなのだが、まだ北海道を歩いていたことになる。

2013.09.07
2週間ほど前、とつぜん、インターネットがつながらなくなった。回線の問題かと思ったが、デスクトップからノートにLANケーブルを差し替えるとつながる。ということはデスクトップのハードの問題かも知れない。デスクトップのふたを開けて、こねこねすること1週間、結局ダメだった。で1週間前、購入先のPCファクトリーにデスクトップを持ち込んだ。なんとIDとパスワートが消えていたことが原因だった。何も悪いことしてないのに、なんで消えてしまったのか判らない。原因が分かったのでほっとして、家に持ち帰りつないだが、今度はwindowsが起動しなくなった。またふたを開けて、こねこねしている内にコードが1本抜けてしまった。たぶんハードディスクのコードと思うのだが、差す場所を間違えて壊れたら取り返しが付かない。再びPCファクトリーに持ち込む。5秒もかからずにコードを差し込み修理完了、ディスプレーやキーボードをセットして起動したらお馴染みの画面が次々と現れた。ところがである。家でスイッチを入れるとまたしてもwindowsが起動しなかった。またPCファクトリーに持ち込むが問題無い。あとはキーボードやマウスの接続を含めた問題しかないとのこと。(PCファクトリーにはデスクトップ本体だけを持ち込んでいたのです。)接続を丁寧に確認しやってみたがやっぱり起動しない。マウスはノートにつなぎ替えて使えたので問題ないだろう。残るはキーボードだ。パソコンがキーボードを認識しているかどうかは、ナンバーロックキーを押すとランプが着いたり消えたりするので判るそうだ。やってみたがダメだった。キーボードが壊れていたのだ。本日、キーボードを買いに行った。キーボードは、キーを打ってみて感じの良い1880円の有線のを買った。(安い!5000円は覚悟をしていたのだが。)取り替えたら、バッチリでした。ひさしぶりに、なめらかに動くユーチューブを見ることが出来ましたよ。
壊れたキーボードはゲイトウェイのもので1998年から使っている。2006年に現在使っているパソコン本体に買い換えた後も、ディスプレイとキーボードは使い続けた。約15年使ったことになる。ディスプレイもそろそろ寿命がつきそうだ。CRTから今度は液晶に変わるのだろうが、このCRTの色が出るか心配だ。

2013.08.31
本日、定期的に通っている病院に行った。二週間ほど前に受けた大腸の内視鏡検診の結果報告を受ける。二つ見つかったポリープの内の一つにガン細胞が見つかったとのこと。粘膜が荒れていた場所から四カ所サンプリングした結果は、悪性では無く炎症とのことだった。憩室に便が長期間溜まると炎症を起こすことがあるという。ポリープは、根元からうまく切除出来ているので、お腹を切って再度切り取る必要は無いとのこと。病院の壁に大腸の内視鏡検診を進めるポスターが貼ってある。女性がかかるガンの一位、男性の三位が大腸ガンと書かれてた。大腸ガンの画像も掲載されていた。16日に自身のポリープの画像を見たとき、ポスターの画像とは明らかに異なる可愛いものだった。しかし、可愛くてもガンだったということに少々動揺した。報告を受けた後、いつもの検診があったが、血圧が最近の値より上下10ほど高かった。内視鏡検査を受けているときは20ほど高かった。私は、自分で思っているほど肝が据わっていないようだ。この文を書いているとき「癌」と変換されても「ガン」を選択した。なんかこの漢字、感じが悪いではないか。
4ヶ月後位に再度内視鏡検診を受けるよう言われた。また報告しますので、乞うご期待下さい。

2013.08.30
運動のため、朝に歩き始めて1年が経過した。ハイキングとかは別にして、朝歩いたのは1年間で159回、トータル724.5kmになる。(ほとんど4.5kmのコースを歩いている。)東海道五十三次は約500kmだそうで、それを考えると、けっこう歩いたんだなぁと思う。結果、体重が6〜7kg減りました。持病が改善したと思えるようになりました。階段の上り下りが楽になりました。中性脂肪とコレステロールが何十年かぶりに、上限一杯ですけど、基準値の中に入りました。血圧もこころもち下がったようです。苦しかったジーパンも、楽にはけるようになりました。同じ時間帯に歩いておられる十人以上の方と顔見知りになり、朝の挨拶をしております。

2013.08.18
会社の健康診断で便潜血が陽性となったのは6月の事だった。サンプリングは計2回行うが、2回とも陽性だったのは今回が初めてである。便が硬いとき血の出ることがたまにある。サンプリング時にそのへんを注意していたが、問題なかったと思う。2年前は陰性、1年前は1回陽性、今年が2回とも陽性と、なんだか嫌な流れである。大腸内視鏡検査を受けることにした。7月末、健康診断の結果を主治医に提出し、内視鏡検査を行う日が8月16日(金曜日)と決まった。15日は、消化の良いものを食し、寝る前に下剤(マグコロールP)の粉末50gを200mLほどの水にまぜて飲む。胃の検査のバリュームを思い出すが、お味はこちらの方が好みである。翌朝16日、4回ほどトイレに行って、お腹は安定してくれた。検査を受ける病院までは1時間と少しかかる。病院の受付は9時からだが、途中でもよおすと少々面倒なので、余裕をもたせて早く家を出たが、お腹は安定してくれていた。病院で2L近くの下剤(腸の洗浄剤目的)を約1時間半ほどかけて飲む。これは食塩水のような味で美味しくなかった。何度もトイレに通う内、排泄物が透明な薄い黄色になった。検査の準備は完了である。検査直前に、手術用の服と肛門部分に穴の開いたパンツに履き替える。7月に、主治医から検査の説明を受けていた。大腸の検査は、食物の流れと逆方向にカメラを入れるので胃の検査より苦しいそうだ。さらに大腸は急角度に曲がっている部分があり、そこをカメラが無理して通過するとき痛いという。私の場合、なぜか麻酔が使えなかったので、カメラを通している時に一度「痛い!」と声が出てしまい、横にして曲げていた身体が伸びてしまった。大腸の一番奥までカメラを挿入したら、引き出しながら検査をする。その時ガスを吹き込んで腸を膨らませる。これが苦しい。知らない内にパンパンになった腹に手を当てて、フーフーフーと小刻みに息を吐いていた。これってお産の時の呼吸法ではなかったか?身体を上向きに変える指示が有った時は、カメラの映像を見ることが出来た。ポリープが二つ見つかり、内一つは大きくて、電気で焼き切った傷跡をホチキスで留めている実況を見ることが出来た。出血はしていなかった。あと一ヶ所、粘膜の荒れた部分があり、細胞のサンプリングが行われた。良性か悪性かは、2週間後に判る。検査、ポリープ切除、粘膜サンプリングが終わって先生から結果の説明があった。大きい方のポリープの実物を見せてもらった。画像のポリープは大きく見えたが、50mLほどのポリ容器の中、何かの液体に浮かんでいたそのポリープは、マッチの頭ほどに思えた。ホチキスで傷跡を留めたが、出血が心配とのことで、一晩入院することになった。17日目が覚めたら、頭が痛かった。検査時、身体に力が入ってしまい、肩がこって頭痛に至ったのだろうか。

2013.07.19
7月の「万葉の会」は、「紀伊の道」と題されて海南市を廻った。今回はバスによる移動だった。この季節、暑さと観光バス料金の安さを考慮した選択だそうだ。前回同様A3・8頁の手作り資料を事前に頂く。それにプラス名簿と2013年度活動予定も頂いた。名簿を見ると、会員は83名で男性は約1割強。(女性は元気だ!)活動予定を見ると、8月は予定無しとなっている。お盆と暑さを考慮されているのではないだろうか。そして、1〜2月は公民館で万葉集学習となっている。3月は同じく公民館で「一年のまとめと反省」となっている。
会社の先輩だったFさんも万葉の会に入会されて、今回初参加である。京都ハイキングと合わせて、万葉の会でもご一緒させて頂くことになった。さて「紀伊の道」の旅だが、高速道路を使って、あっけなく目的地に着いた。高速を使えば、「あたりまえ」とは限りません。どこやらのバス旅行では、乗車間無しから酒を飲むため予定外のトイレ休憩が頻発し、なかなか先へ進めない各駅停車状態だった。最初に向かったのは藤白神社。雨上がりで蒸し暑く、早速汗がにじむ。次に藤白峠に行く予定であったが、前日の雨で足下が不安ということで中止となった。途中までちょっと登ってみたが、たしかに急な坂であった。峠行きが中止になった分、藤白神社でゆっくり出来た事は、神社好きの私にはありがたかったが、白藤峠から黒牛潟や和歌の浦等も見てみたかった。(資料には「眺望絶景・熊野路第一の美景なり」の文字がある。)次に、黒江の町に散在する万葉歌碑をバスと足で廻った。古い町並みを通り、中言神社等も訪ねた。
7月にお近づきのあった万葉歌の中から、以下に三つ選びました。

巨勢山【こせ】の つらつら椿 つらつらに 見つつ思【しの】はな 巨勢の春野を(1−54)(坂門人足【さかとのひとたり】)

黒牛潟【くろうしがた】 潮干【しほひ】の浦を 紅【くれなゐ】の 玉裳裾【たまもすそ】ひき 行くは誰【た】が妻(9−1672)

磐代【いはしろ】の 浜松が枝【え】を 引き結び 真幸【まさき】くあらば また還り見む(2−141)(有間皇子)

有間皇子は、謀反を計画したとして藤白坂で殺されている。日本書紀に「庚寅【かのえとらのひ】に、丹比小澤連國襲【たぢひのをざはのむらじくにそ】を遣して、有間皇子を藤白坂【ふじしろのさか】に絞【くび】らしむ。」とある。
黒江の町

黒江の町
中言神社

中言神社

2013.07.06
「万葉の会」に入会した。万葉の舞台を訪ね歩くことが主な活動の会である。(だと思う。)万葉集は、たぶん高校の古典の時間に習ったと思うが、まったく記憶が無い。でも、少しは興味があるらしく(人ごとの様に言っている)、この「雑な文」にも万葉集のことを過去に書いた(2009.02.01)(2009.02.16)。だから、少しは興味のあることは紛れもない事実であるが、私の入会目的の約7〜8割は、ある人が言った「大人の遠足」だと思う。で、先月6月、初めて参加したのは「藤原京の道」。事前にA3サイズ8頁の資料が配付された。手作りのすごい資料である。地図・コース案内は勿論、万葉集の歌42首、図版など、いたせりつくせりの資料だ。会長のYさんが作られるという。2万歩以上歩き廻って、印象に残ったのは、紀寺跡附近から見た天香具山(この位置からみると甘南備型に見えるのだ)、おふさ観音(薔薇が咲き誇っていました)、おふさ観音から近鉄八木駅にかけての古い町並み(近くにこんな良いところがあったのだ)等々・・・・
6月にお近づきのあった万葉歌の中から、以下に二つ選びました。

大和【やまと】には 群山【むらやま】あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見【くにみ】をすれば 国原【くにはら】は 煙【けぶり】立つ立つ 海原【うなはら】は 鴎【かまめ】立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島【あきづしま】 大和の国は(1−2)(舒明天皇)

ひさかたの 天知らしぬる 君ゆゑに 日月も知らず 恋ひ渡るかも(2−200)(柿本人麻呂)
天香具山

天香具山
耳成山

耳成山
畝傍山

畝傍山
おふさ観音(観音寺)

おふさ観音(観音寺)

2013.06.06
前回4日の続きです。
話は1年前にさかのぼる。このとき、JR二条駅でおりて神泉苑、京都御苑を経て、おもに竹屋町通を歩いて下鴨神社に参拝した。ここで結構疲れ、最寄りのバス停からバスに乗って帰ることにした。そこで乗り合わせた、たしか姫路まで帰ると言われたと思うが、その男性が、「姪が日本画を描いているのだが、京都で展覧会があったので姪の作品を見に来た。」と言われた。その姪御さんのお名前は「森田りえ子」と言われる。恥ずかしながら、私はその方のお名前も作品も存じ上げなかった。忘れぬ内にと手帳にメモをして、帰ってからネット検索をしたのでした。
その森田りえ子氏の作品を、ここ鹿苑寺の方丈で見ることが出来たのだ。と、思ったが、解説者のお話によると、この杉戸絵はデジタル画像だという。実物は退色を恐れ別保管しているという。庭に面したこの杉戸に元々描かれていた絵は退色してしまい、森田りえ子氏と石踊達哉氏のお二方が新たに描き下ろされたという。(またまた恥ずかしながら、石踊達哉氏のお名前も存じ上げませんでした。)1m位の距離では、私には実物か印刷されたものかなんて分からない。触ったら分かると思うのだが、ピッピッピッピッピッと派手な警報が鳴るでしょうね。
今回の京都ウォーキング、約27000歩でした。

2013.06.04
前回2日の続きです。
金閣寺は、平日でもすごい人出だった。ゴールデン・テンプルなんて言葉も聞こえてくる。お寺の名前は鹿苑寺【ろくおんじ】というが、金閣寺の方が断然通りがよい。持っている地図を見ても、「金閣寺(鹿苑寺)」と書いてある。「鹿苑寺の金閣」が正しい言い方になるのだろう。では金閣とはどのような建物かというと、お釈迦様のお骨(舎利)をまつった舎利殿なのだそうだ。もらったパンフレットの写真から想像すると、お骨は三層におまつりされているようだ。舎利殿といえば、昔行った鎌倉の円覚寺を思い出す。五重塔にも舎利が納められているが、日本だけでもかなりの数の舎利が存在していると思われる。
方丈も公開されていたので入ることにした。金閣の拝観料の倍以上したが、解説される方の案内で廻ることが出来て、1000円の値打ちはあったと思った。方丈は、金閣周辺の混雑とは裏腹にゆったりとした感じで、私とFさんと偶然タイミングが合った女性と計三名のグループで廻る。
この方丈で、ちょっとした出会いがあった。方丈修復の一環で、杉の板戸へ新たに日本画が描かれたのだが、その絵を描かれたお一人が、森田りえ子氏というのだ。

この続きはのちほど・・・
(今ちょっと調べてみたら、前回私が鹿苑寺に来たのは2004年2月だった。)

2013.06.02
昨日の続きです。
千本通りの交差点で信号待ちしていると、角の建物に「ツラッティ千本」と大きく書かれた文字が目に入った。Fさんも気が付かれて、「ツラッティって、どういう意味やろ?」とつぶやかれた。イタリア語やろか、等と思っていた私も分からない。すると、隣で信号待ちしていた方が教えて下さった。「『連れ合って』という意味です。京都の方言だが、最近はあまり使われないので、若い人は知らないかもしれない。」そうえば、同じような意味の言葉に「つれもっていこら」という言葉があったなぁと思い出す。教えて下さった方(仮にAさんとさせて頂く)は、左大文字のある山の裾に住まわれていて、散歩の帰りという。金閣寺を目指している私達と方向が一緒で、歩きながらAさんから、五山送り火にまつわるお話を聞くことが出来た。スケジュールが昔からきっちりと決まっている事の大変さ。すなわち、伝統を守る事の大変さ。約20kgほどある薪を背負って山の斜面を登る大変さ等々。その前に、山から薪を切り出さなければならないし。火床の受け持ちも、檀家一軒一軒に割り振りされているそうだ。今ネットで調べたら、左大文字の場合、保存会は、法音寺の元檀家35世帯(1990年時)で構成される、とあった。
金閣寺に至るこの辺り、Aさんのお話を聞きながらも、紫野【むらさきの】とか衣笠【きぬがさ】とかの地名が目に付く。いい名前だ。たとえコンクリートの建物が目立っても、そのような地名のあるところを歩いていると言うだけで楽しい。「衣笠の古寺【ふるでら】の侘助椿【わびすけ】の たおやかに散りぬるも陽に映えて」という、さだまさしさんの歌詞が浮かんできた。

2013.06.01
前回、雑な文の掲載頻度を上げたら・・・、等と書きながら、1ヶ月が経過してしまった。その間、まったくネタの無い人生を送っていた訳ではありません。ほんの少し書く努力が足りなかったというこで。

一週間ほど前、Fさんと二人で京都を歩いた。京の町を「観光+ウォーキング」と意識して歩くのは、昨年3月から今回で7回目である。(Fさんと歩くのは5回目)1回の散策に、2万歩から3万歩位歩く。(自宅から最寄りの駅までの歩数も含む)今回、前から行きたいと思っていた船岡山を含むコースを検討した。船岡山は、平安京を造る上で基点となった所だ。建勲神社もある。前回歩いた祇園白河二年坂三年坂(三寧坂)のような(観光都市京都の中でも)屈指のスポットではないかもしれないが、下調べをしていたらやっぱり、色々と出てきます。鞍馬口通りと上御霊前通りをメインに考えていたのに、北は今宮通り、南は今出川通りまで広がってしまった。とりあえず、地図にスッポットを記入して、行きの電車でFさんと相談、鞍馬口通りと上御霊前通りをメインに上御霊神社から船岡山に向かい、後は成り行きとなった。船岡山で昼食をとり、次に大徳寺に向かう。千利休切腹の理由の一つとなった山門がある巨大な寺である。次は隣の今宮神社に参拝、その次は金閣寺に行くことになった。

移動中の千本通り交差点で出合った地元の方と、金閣寺までご一緒する機会があり、色々お話を聞くことが出来た。金閣寺では、方丈の特別公開をしていた。そのお話は次の機会に・・・

2013.04.23
日曜日、本屋さんでぼけに関する本を立ち読みしていた。「頭を使う仕事をしている人はぼけない。」「指先を動かす仕事をしている人はぼけない。」は間違い、と書かれていた。著者は多数の認知症の患者さんを見てきた医師である。認知症の患者さんの中に学者、寿司屋さんがいることを例として挙げていた。著者は言う。頭を使いながら、指を動かす人がぼけないのだそうだ。楽器を演奏する職業の人がその代表だという。立ち読みしたのは一昨日だったが、昨日偶然、通勤時に聞いていたTV(運転中は映像が出ないので。)で認知症の特集をやっていた。頭を使いながら身体を動かす(身体を動かしながら頭を使う?)のが、認知症の予防、治療に効果があるという。例として、歩きながらある数から3を引く計算を続ける、を挙げていた。二つのことを同時に行うことにより脳を刺激するのが良いのだそうだ。このような治療で、認知症の進行が止まったり、改善したりしたそうだ。改善するのは極めてまれだそうで、このリハビリの有効性が証明されたという風なことを言っていた。なにぶん、立ち読みの拾い読み、運転中の拾い聞きなので、精度は悪いが、参考になりました。そう言えば最近ギターを弾かなくなった。約二日に一度、4.5kmを歩いているが、その時私の頭は何をしているのだろう。認知症予防に何かしなければ、いや、私の場合もう始まっていて、予防ではなく進行停止の方かも知れないが、とにかく何か効果のあることをしなければと思った。そうだ、今この文章をキーボードをたたいて書いているが、これは良いかもしれない。一応曲がりなりにも、ブラインドタッチが出来ます。(最上段の数字の列は出来ませんが。)10本の指を動かしているし、下手な文章でも頭を使った内に入ると思うのだが。最近HPの更新が以前に比べて少なくなっている。この「雑な文」も、もっと掲載頻度を上げたら認知症のリハビリになるかもしれない。

2013.04.21
「タイタンの戦い」(DVD2010年版)をBookOffで買った。この映画のことは知らなかったが、ケース裏にメデューサの小さな写真があり、これがまた美人だった。思わず見とれたのだが、大丈夫、石にはされませんでした(笑)。安かったのとメデューサの美しさにひかれて衝動買いしました。映画自体けっこう楽しめましたが、やっぱり、ペルセウスとメデューサの対決シーンが良かった。ご存知の通りメデューサは、腰から下が蛇であります。この映画では、蛇の部分が結構太くて長い。同じCGを使った映画アナコンダを思い出してしまいました。昔「アルゴ探検隊の大冒険」やシンドバッドシリーズをわくわくして見たものです。当時、ハリーハウゼン版こま撮りの怪獣・怪物が大好きでした。着ぐるみだとデザインが制限されるのでね。

2013.04.14
久しぶりにI君とツーリングに行きました。今回のツーリングは「熊川宿へ行って焼き鯖寿司をたべよう!」がテーマだ!!
実は一昨年だったか、その前だったか、同じくI君と熊川宿へツーリングに出かけたのだが、途中で小雨になってしまった。雨具は準備していたのだが、私のバイクのフロントタイヤが減っていて、何だか嫌な予感がした。この先、山道下りのワインディングロードになる。I君に頼んで引き返すことにしたのでした。元来た道を戻ってくると下は晴れており、違う方向のコースを走ったのでした。
今回は再挑戦ということで、天気を入念にネットでチェックして決行しました。天気は良いが気温が低いというので、服装は冬の装備です。
ちょうど、湖北は桜が満開との情報があったので、161号線の渋滞を避けて今回も367号線を使う。使ったのでしたが、熊川宿からの帰りに来た道を引き返せばよかったものを、何を血迷ったか湖北回りのコースを選んでしまった。海津辺りで反対車線が大渋滞しているのを横目にみていながら、そのまま8号線に合流したら、こっちの車線も大渋滞だった。久しぶりの長距離ツーリングでクラッチを切る左手が疲れていたにもかかわらず、琵琶湖の北端で渋滞に巻き込まれてしまった。
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夕飯を食ってから、身体がだるいので自室のベッドに寝っころがって「家守奇譚」の続きを読み出したのだが、瞬く間に眠ってしまった。で翌日の3時に目が覚めてこれを書いてます。

2013.02.26
「伊賀上野 城下町のおひなさん」というイベントをやっていると新聞に出ていた。見に行くことにした。
古い貴重なお雛様を多数展示しているのは旧沖森邸である。その中には流し雛や、御殿の中にお雛様がいるのもあった。
星さん宅には、五人囃子の一体だけ顔の赤いお人形がいた。この一体だけお酒を飲んだのだろうとは、星さんのお話。もう一体、強く興味を引いたのは亀に乗ったお人形だ。横には小さな玉手箱。浦島太郎である。ただしお人形の顔立ちは女性で、衣装も女性のものだ。
紅屋さんのお店にも百年以上前のひな人形が飾られていた。お内裏様の横に鎮座する女雛がお内裏様の奥様なのかお嬢様なのか、私は知らないが、中々良いお顔をされていた。私の好みでミス(ミセス?)女雛に選ばせて頂きました。
本町通りに来るまでに、旧上野市内の神社も併せて5社参拝してきました。歩き回ったので途中で疲れ、おひなさんのスタンプ会場すべてを回ることが出来ませんでした。

2013.01.02
あけましておめでとうございます。本年も神社参拝記をよろしくお願い申し上げます。

巳年です。巳=蛇。蛇の夢を見ると金運に恵まれるとか、長生き出来るとかの俗信がある。蛇が苦手な私は、昔宝くじを数回買ったが当たったためしはなく、金運には恵まれていないようだ。長生きも出来ない可能性が大きいようだし。
でも、「でも」であるが、恐いモノ見たさで動画とか写真とかはよく見ます。映画「アナコンダ」は1も2も見ました。ので、とことん嫌いというわけではないのかも知れない。そへんの微妙な心理を汲み取って頂いて、少しは私に金運をよろしく。
大神神社の御神体である三輪山は蛇がとぐろを巻いた姿だという。お正月はすごい人出だろうから、落ち着いたらまたお参りしよう。

写真:沙沙貴神社
巳の像

2012.12.02
学生時代、勉強はあんまりしなかった。それでも、興味を引く授業は聞いていた様で、断片的に今でも頭の隅に残っており、時々顔を出す。いつだったか、同僚と目的地へ行く道順の話をしていて、三角形の定理が出てきた。「三角形の一辺は他の二辺の和より短い」というやつだ。(間違ってます?)「あった、あった、よく覚えてましたね。」と同僚。この定理が出てくるのは、小学校だったか、中学校だったかは覚えておりませんが。
この季節になると、思い出す短歌がある。これは(99%以上の確率で)高校の教科書に出ていた歌だと思う。
「金色【こんじき】の 小さき鳥のかたちして いてふ散るなり 夕陽の丘に」
「いてふ」とはイチョウのこと。歴史的仮名遣いって、いつ習ったんでしょうか?書いた漢字は不明です。夕陽だったか夕日だったか、丘?岡?)私の頭に浮かんでくる情景はこんな感じでしょうか。小さな町並みを見下ろす高台の広場に、大きな銀杏の木が一本植わってる。いましも太陽が遠くの山並みに沈もうとしている。黄色く色づいた銀杏の葉がはらはらと落ちてくる。落ち葉の落ちる角度によって夕陽が反射し、黄色が金色に変化しまた黄色に戻る。
黄色い絨毯を見ることの出来る、踏みしめることのできる季節が今年も巡ってきました。HPに積田神社をアップしておりますが、この季節になると、アクセス数が普段の10倍以上になります。長瀬の国津神社の方にも黄色い絨毯がありますので、よろしくお願い致します。
桂川沿いの歩道

桂川沿いの歩道(2011年12月4日)
京都御苑

京都御苑(2012年11月24日)

2012.11.18
YouTubeで、フォークソングのカラオケを検索しながら歌っていた。はしだのりひことクライマックスの「花嫁」を検索したら、はしださんが映像に出演していた。はしださんの隣人が、歌詞の中のヒロインという設定だ。結婚するため、小さなカバン一つを下げて、空になった部屋を後にするヒロインと、タバコを買いに出ていたはしださんが、横断歩道でばったり出会い挨拶を交わす。「長い間お世話になりました。」「そうですか、○○さん結婚されるんですか。どうぞお幸せに。しかし、さびしくなるなぁ。」なんて会話をしているんだろうか。部屋に帰ったはしださんは、タバコを吹かしながら、組み立てたレールの上を走るNゲージの列車を眺めている。ヒロインが乗る夜汽車とNゲージの列車の映像がが交互に切り替わる。夜汽車といっても、映像は「特急あさま」だった。ヒロインは「海辺のまち」に嫁ぐはずだが、特急あさまに乗り込んで良いのか?とちらっと思った。
Nゲージで思い出した。そうだ、小学校の時、クリスマスプレゼントにHOゲージの電気機関車を買ってもらったのだった。近所のおじさんが来た時、私は自慢げに機関車を走らせて見せた。レールの継ぎ目でガタコンガタコンと音がするので、「本物みたいな音がする」とおじさんが言った。自分がほめられた様に嬉しかった。その後も、小遣いで貨車を買い足したり、線路を買い足したりした。私の少ない小遣いでは、動力車は買えなかったし、客車も買えなかった。

2012.10.26
朝早く目が覚め、4時45分頃から歩き始めた。10月下旬ともなると、外はまだ暗い。国道の信号が青に変わったのが見えた。赤になる前に渡り終えたかったので走った。横断歩道を歩いている人が見えた。信号が点滅し出したので、渡り終えるまでさらに続けて走ったら、前を歩く人との距離が縮まった。息切れしてハーハー言いながら歩いていたら、私のペースが早くて前の人との距離が縮まってきた。女性のようだった。そのとき5mも離れていなかったと思うが、私のハーハーという音に気づかれたのか、さりげなく振りかえられた。直後彼女はペースを上げ、私との距離が縮まらなくなった。門灯が灯った家が見えてくると、その人はスッと門を入り、直ぐの階段を2〜3段上がったような感じがしたところで、私が門灯の前を通り過ぎるというタイミングになった。追い越す時に「おはようございます」と言う心づもりをしていたのだが、彼女のペースがあがったとき、「ありゃ〜不審者と思われたのかなぁ」とか考えていて結局門灯の前でも挨拶出来なかった。
その人は、肩から斜めに反射テープを縫いつけたウェアを着ておられた。私も反射テープを利用していたら、不審者には見えなかったかも知れない。まてよ、不審者どころか変質者と思われたのだろうか。夜も明けやらぬ暗い道で、女性の後をハーハー言いながら早足で追いかけてくる男・・・
同僚は夜形ウォーキングで、たすきタイプの反射テープをしているという。私はしていないと言うと、「車にはねられるよ。」と言われた。「そちらは県庁の所在地、大都会だから。」とかえしたのだが、名張でも4時台だと数台の車に出会う。新聞配達のバイクも走っている。ホームセンターに行く機会があれば、反射テープを物色してみようか。
彼女が振り返ったとき、「おはようございます」と頭を下げればよかったのかもしれない。少し距離があったから音量を上げなければならないが。
あの門灯が明るく灯っていた家、彼女の自宅だったのだろうか。たまらず、他人の家に避難されたのだろうか。私って、ウォーキング中の人相そんなに悪いのだろうか。
色々、考え事の多い本日のウォーキングでありました。そして本日の記録は4.5km42分32秒で、私としてはまあまの歩きでありました。

2012.10.20
朝日新聞で、村上春樹さんが寄稿した尖閣問題に関する文章を読んだのは先月のことだった。彼の作品が中国、韓国で人気のあることもそのとき知った。また、文章の中の「安酒の酔い」という言葉もずっと頭に残っていた。「彼の作品は読んだこと無いなぁ。」と思い、まてよ、数年前入院したとき、病棟においてあったので読んだミソスープなんとかというのは、誰の作品だったのかとネットで調べたら、村上龍さんの「インザ・ミソスープ」だった。外国でも人気のある小説家といえば安部公房さんを思い出すが、現在も人気が続いているのかは知らない。村上春樹さんはどんな小説を書く人なんだろうと少し興味を持った。そしたら、先日BOOKOFFで105円の「ノルウェーの森」を見つけた。グッドタイミングだ。上下で210円也。本屋で平積みされていた見覚えのある赤と緑と金の帯の装幀である。
読みはじめたら止められなくなった。読み始めて止められなくなる本は沢山あるが、読み終わった後も、深い余韻がのこる本だった。

2012.09.24
奈良町の庚申堂の当たりで空が黒くなり、大粒の雨が降ってきた。とりあえず傘を差した。次の目的地は鎮宅霊符神社なんだけど、この雨だと写真も撮れない。しかし時間はまだ2時頃でこのまま帰るのももったいない。とは言うものの、歩き始めて6時間以上経過しているし、もう帰ろうか。どっちつかずのまま歩いていたら、お店が見えた。そばまで行ったら喫茶店だったので入ることにした。メニューを見ると、抹茶パフェという名だったかが美味しそうだったが、贅沢と思いホットを注文した。間なしに先ほどの若い女性が、「豆を変えたんですけど、甘い香りがするんです。いいですか?」と聞いてきた。かまわないと言ったら、こんどは主人らしき女性が、小皿にコーヒーを入れてもってきた。味ききしてほしいようだったので、飲んだ。香りの方は、私は鼻が悪いので分からないのです。「これでいいです。」と答えた。ウエハウスがついてお代わりがあり、250円は満足でした。トイレは廊下を上がって奥にあった。間口が狭く奥に長い京都の町屋と同じだ。中央部に庭が造られているのも同じだ。規模は異なるが「ならまち格子の家」もそんな建て方だった。
小降りになった雨の中を鎮宅霊符神社に向かった。その隣に「奈良町からくりおもちゃ館」があり立ち寄った。丁寧におもちゃのからくりを説明して下さった。(奈良町振興館もそうだった。)江戸時代の色んなからくりおもちゃが展示されているが、レプリカなので手にとって遊ぶことが出来る。唐独楽【とうこま】は、幼い頃、親父に買ってもらった独楽を思い出させてくれた。回す構造は少々異なるが、空胴で溝があり回転すると唸り音がするのは同じだ。
なんだか、奈良町全体から歓迎されているような気分に浸ることが出来て、楽しい一日であった。

2012.08.31
私は、参拝するときお賽銭を入れてから鈴を鳴らしていた。あるとき、どちらが先だろうかと話題になった。鈴を鳴らしてからお賽銭を入れる人もいたのだ。手水の使い方や二拝二拍手一拝(出雲大社等は違います)は、イラストや文章で説明されているのを現場でよく目にする。しかし鈴と賽銭どちらが先かという説明は、現場で目にすることは無かった。ではなぜ、私はお賽銭を先にしていたのか。鈴を鳴らすのは、「神様!私に注目して下さ〜い!」という意味に違いないと思っていた。仮にお賽銭をその後に入れたとしたら、注目して頂いた神様に、「神様!ちゃんと入れましたから、お願いを聞いて下さいね〜!」なんて言ってる様で、それはなんぼなんでも神様に失礼ではないだろうかと思ったのだった。
先日、ある本に、「お賽銭を投げた後、鈴の緒を両手で持って三回力強く鳴らす」と書かれていた。なぜお賽銭が先かの理由は書かれていなかったが、これで少し自分の作法に安心できた。その本はさらに、鈴を鳴らすのはその音に込められた霊力により自身の罪穢れを祓い清めるためだという。ただし、巫女がお神楽の時に鳴らす神楽鈴の音は、神を招来する役割があるという。

2012.07.29
ここ数日暑い日が続いている。家にすっこんで、パソコンして読書しての毎日である。暑さもそうだが、足を痛めたことも、自宅にすっこんでいる理由の一つだ。ようやく普通の格好をして歩ける様になったが、膝を真っ直ぐ伸ばしたり、うんち座りは痛くて出来ない。無理をせず、どうしても外出しなければならないときは車を使っている。
パソコンをする、といっても大半はネットサーフィンなんですけど、最近少しAccessを勉強している。ExcelとWordは日常業務に支障のない程度には使っているが、それらを使って行う業務の一部をAccessで出来ないかと思ったのだ。同じデータを、あっちのファイルへこっちのファイルへと、重複入力する作業って結構あります。それを一度で済ませたいというのが発端です。実は数年以上前、Accessの解説本をBookOffで見つけて買ったのだが、ちょろっと読んでは跳ね返されの繰り返しだった。最近図書館で、「データベース基礎の基礎」という本を見つけ読んでみた。Excelで作るデータベースと何がどう違うのかが、おぼろげながら分かった気がした。リレーションシップのメリットが分かった気がした、と言い直しても良い。と言うことで少しやる気が出た次第です。Excelで作っていた個人データをAccessに落とし込み、こねこねとデータベースのお勉強中です。三日坊主の予防に、ここに書いておきます。

2012.07.24
おかっぱ頭のSさんは、私が他の女性と異なる感情を持った初めての女性だった。彼女とは、小学校高学年で同じクラスだった。小学校5年生のとき、クラスの男子2人に好きな女性を白状しろと詰め寄られ、私はSさんの名前を口に出してしまった。たちまち皆に知れ渡ったが、彼女も含め以前と何も変わらない人間関係がその後も続いた。Sさんは玉子が苦手で、好き嫌いの多かった私と2人、給食を全部食べるまで教室に残されたことがよくあった。昼休みの遊び時間が何度もつぶれた。その当時、私達は男女数名のグループを造っていた。それぞれの親もPTAの役員だったりで、親同士も泊まりがけの旅行に行ったりする仲であった。私達は、夏休の宿題を各人の家をまわって一緒にしたりした。Mさんのお父さんは刑事さんだった。彼女の家に行く時は、ピストルを見られるかも知れないと期待して行ったのだが、いつも駄目だった。クリスマスパーティもした。1kmほど離れている玉造の日の出通り商店街までクリスマスケーキを買いに行ったりした。帰りに中華そばを食べたっけ。たしか40円だったと記憶しているのだが。弁天町にある交通科学博物館へグループで行ったこともあった。学校から一度行って、その後もう一度行きたいということになり再訪したのだ。どういう経緯か覚えていないが、あるときSさんの田舎の長谷に行く事になった。駅から長谷寺に向かったが、結局寺内には入らず、初瀬川の河原で水遊びをして過ごしたのだった。

2012.07.13
一週間前にBookOffで「マークスの山」(105円也)を見つけ購入した。村薫さんの作品は、「レディジョーカー」「照柿」「李歐」(「我が手に拳銃を」の書き直し版)を過去に読んでいた。中井貴一さんが合田を演じている映画(TV放送)は、厳しいといおうか、トゲトゲしいといおうか、そんな警察という組織のえがかれ方しか印象に残らなかった。ストーリーもよく分からなかった。しかし本を読むと、面白くて数日で読んでしまった。もう一度映画版を見てみたい気もする。「薔薇の名前」は映画の方が面白いと以前書いたが、何ヶ月か前に読んだ「ダヴィンチ・コード」は、「マークスの山」と同じく小説の方がだんぜん面白かった。こちらも古書で、安かったので読む気になったのだが、上下2巻を一気に読んだ。そういえば、このごろ古書店廻りの頻度がけっこう高くなっている。

2012.06.30
2001年頃に回った滋賀の神社に行きたくなり、一週間前の23日に出かけた。その中には、背後の山に磐座を持つ神社が含まれていた。その山を下っている時、足を滑らせて尻餅をついた。歳で足腰が弱っているのではなく、前日の雨で山道が滑りやすかったことを原因としたい。ジーパンが汚れただけなら良かったのだが、変な転け方をしたため膝の内側の筋を伸ばしてしまった。格闘技のワザにあるヒール・ホールドをかけられたら、こんな痛さになるのではないかとその時思った。しかし、歩けるのでそのあとも3時間ほどで3社回った。最後の神社を出たのは15時頃だった。このときは時間さえあればまだ回れる感じの痛さだったのが、自宅にもどり車から降りようとしたらやばい痛さに変わっていたのだ。玄関の階段を一段づつゆっくと確かめる様に登らなければならなかった。左右の膝を比較すると痛めた方がやや腫れている。しかし比較しないと分からない程度だ。膝を真っ直ぐに伸ばそうとすると強烈に痛いのだが、軽く曲げていると痛みはまったく感じない。時間が解決してくれるだろうと考え、病院には行かない事にした。夜ベッドに横になると、痛くないポーズは限られていた。寝返りをうつと痛みで目が覚めた。翌日の日曜日は、最悪の痛さだった。椅子に座ってひざを曲げた状態だとまったく痛くないのは昨日と同じだが、歩いていて足を下ろした時が痛いのだ。そして地面にわずかでも角度が付いてたら、ビクッと強烈な痛みがくる。その痛みでひっくり返りそうになるので、杖をつく事にした。一週間経過して、少しずつ回復に向かっていることは間違い無いようだが、まだまだ普通の歩き方は出来ない。
三週間前、Fさんと太秦から嵯峨野にかけて約25000歩ほど歩いた。次は、伏見に行こうかと話していたのだが、いつになることやら。

2012.06.15
バイクで走っていて風呂に入りたくなった。番台に行くとT君の家族が並んでいた。奥さんや成人した娘さんがいる。しばらく見ない内に大人になったんだなぁと思った。T君達は私に気づかないが、私も話しかけないで順番を待っていた。私の番になった。「申し訳ないですが、後1時間半したら風呂を洗うので湯を抜きます。」まだ昼間なのにもう店じまいするのかと思ったが、入ることにした。財布に細かい金が無く、5千円札を渡した。タオルと石鹸も欲しいと言った。5千円札を受け取った女主人は、お釣りを渡さない。不満に思いながらもお釣りを諦めて、番台の横で服を脱いだ。リュックサックを隠すように脱いだ服を被せていった。タオルを買ったはずが持っていなくて、手で前を隠して浴槽に向かった。浴槽に入る前にトイレに行きたくなった。それらしい扉を開けたら目の前は都会の景色が広がっていた。車が走り、自転車に乗った人が行きかっている。間違えたと思い、浴室に入る位置に戻ってもう一度トイレを探した。グレーに塗った幅の細い木製の扉が目に付いた。トイレットと英語で書いた文字が見えた。幅の狭いその扉を開けると、私の部屋の4倍位の広さがあるトイレだった。真ん中に大きな円形の穴が空いていた。部屋は板の間だが、その穴の壁は石垣が組んであった。その便器に用を足す。用を足していると、私が入った扉と異なる90度左手の位置にある扉が開いて、年輩の男性が入ってきた。彼が放水を始めるとき、的が外れて私の足の甲に尿がかかった。用足しが終わった私は、足の甲を石組みでぬぐって浴室へ戻った。十人位の男が集まっていて、ひときわ高い位置にいるビリケンさんの様な顔をした男が私に話しかけてくる。牢名主の様な地位にある感じだった。博打にさそっているのか、所場代を要求しているみたいだった。知らぬ顔をして、私は浴槽に浸かりたいと辺りを見渡した。浴槽は見当たらなかったが、10cmほどの深さで床に湯が広がっていた。小学校低学年ぐらいの男の子がそこでゴロゴロところがっていた。なるほど、あの様にして身体を温めるのかと私も同じ様にする。その男の子を見たら泥で真っ黒けになっていた。
4時半頃目が覚めたら、かなり逼迫していてトイレに行った。夢の中では小用を済ませたんですどね。

2012.05.18
先週末、ぶらっと大阪へ出かけた。カメラケースを買い、安い映画のDVDを選んで買い、古書を一冊買い、キーボードカバーを買い、なんやかんやでこの日1万円ほど使った。自宅へもどって万歩計を見たら、一万歩を超えていた。
DVDは「薔薇の名前」「バーバレラ」「遊星からの物体X」の三本。計3000円也。その日に2本、翌日に1本を見た。「薔薇の名前」と「遊星からの物体X」はTVから録画したビデオがあるのだが現在は見られない。
「バーバレラ」は昔TVで放送されたものを一度見ただけだった。これは1968年の作品である。学生の頃、難波だか上六だかで見た映画館の看板が印象的だった。金のない学生だった私は、指をくわえて前を通り過ぎていた。監督はロジェ・ヴァディム。ブリジット・バルドー、カトリーヌ・ドヌーヴ、ジェーン・フォンダと関係を持った、なんとも羨ましい男だ。主演はそのジェーン・フォンダ。ジェーン・フォンダによるジェーン・フォンダためのジェーン・フォンダの映画だ。彼女を見ているだけで1時間半が過ぎてしまう。って、ほかに見るものがあるのか?という意見もあるが。
「遊星からの物体X」は、ジョン・カーペンター版で1982年の作品。昔、録画したこのビデオを見ながら家族で食事していたら、小学生だった娘が気分が悪くなり食べられなくなって、嫁さんに怒られたのでした。とにかくSFXがすごい。
「薔薇の名前」のことは以前にも書いたが、とにかく本好きにはたまらない映画だと思う。映像もいい。場面は修道院のみだが、見入ってしまいます。TVで放送されたものには入っていない場面が、DVDにはあった。この場面はストーリー上重要だと思うのだが、TVでのカットはしかたないでしょうね。
買った日に2本、翌日に1本楽しく鑑賞致しました。

2012.05.06
連休に入って、本格的に2階の掃除をした。2週間前から土日に少しずつやっていたのだが、長年積もった垢は簡単には落ちない。一昨日、懸案であった、壊れた2階の本箱を入れ替えた。この連休最大のイベントである。壊れた本箱は40年以上使ってきたものだ。中心部が違い棚風になっているめずらしい形が気に入って、若い私は買ったのだろうか。しかし、これが災いして棚がたわんでしまった。30cm位の板を1枚さしこめば、更なるたわみを防ぐことができたのだろうが、ほったらかしにしていたら、張りぼての棚板が裂けてしまった。それから、1年以上このサイズの本箱を探していたのだが、それが見つからない。家具屋が駄目ならと、リサイクルショップも探したんですけど・・・。そしたら何ヶ月前だったかに、ホームセンターで、少し背が高いがこれだったら良いかもしれないと思える本箱が見つかった。だが、今度は大仕事が予想される入れ替作業の決心がなかなかつかない。先月宇陀へハイキングに行ったおり無くした万歩計を、そのホームセンターへ買いに行った。ついでにその本箱を見に行ったら、一割以上値下げになっているではないか。しかも、「在庫限り」となっている。無くなったら大変だと入れ替えの決心をしたのでした。無事作業は終了致しましたが、二日たっても身体の疲れがとれません。


2012.04.23
同僚から、よく「○○君は趣味が多いからええなぁ。会社辞めても退屈せえへんな。」とよく言われる。自分では、多いのか少ないのか分からないが、複数の人からそう言われているので多いのかもしれない。趣味は?と聞かれ、外せないのが読書だ。といっても、難しい本は読んでませんし読めませんが、私の中で一番古い趣味は読書ではないだろうか。読書は絵本から始まった様だ。近所の本屋さんで買っていたが、気に入った本が無くなると、玉造駅に近い本屋さんまで一人で買いに行った。今地図で確認したら、昔住んでいた家から本屋まで1kmもなかったが、小さな私にとってはかなりの冒険であった。今でも覚えている絵本の一つはナポレオンの伝記で、ダビッドの絵が複数使われていた。無論当時は絵の作者なんて知らなかったが、絵は気に入っていた。源為朝の伝記もあったが、こちらは日本画風でナポレオンの方がお気に入りだった。弟がディズニー絵本を買いはじめると2人で遠くの本屋さんに行ったのだった。小学校低学年の頃、学校で描いた自分の絵とディズニー絵本の絵と比べ「なんでこんなに違うんだろう」と思った事もあった。
小学校に入ると、図書館で本を借りて読んだ。今でも覚えている一冊に「巌窟王」がある。高校に入った時新潮文庫で読んだ「モンテクリスト伯」の子供向けの本だった。区の図書館も利用した。こちらには江戸川乱歩の怪人二十面相シリーズや、アルセーヌ・ルパンシリーズがあった。これらはほとんど全て読んだと思う。区の図書館には漫画もあった。ゲゲゲの鬼太郎ではなく墓場の鬼太郎もあった。立ち読みしたのか、借りたのか覚えていないが、目玉がドロンと落ちるシーンを思い出す。それが目玉親父の誕生シーンだったのかは記憶に無い。

2012.03.30
新聞の「声」の欄に、娘にせがまれゲームセンターに行ったら、お年寄りが多いのに驚いたという投稿があった。私も娘が小さい頃、一緒にゲームセンターに入ったことがある。嫁さんが買い物をしている間の時間つぶしだったのだが、店内が明るい事と、若いカップルの多いのに驚いたのだった。私が若い頃持っていたゲームセンターのイメージとは、暗くて、さらに煙草の煙が光をさえぎっている、そんな感じだったのだ。独身の頃そんなゲームセンターに通い詰めた事があった。退社後同僚のO君と二人で、馴染みの店でカツカレーとサラダを食べ、100円玉を10枚ほど持ってゲームセンターに行ったのだ。インベーダーゲームである。二人が向き合い、交互にゲームをした。(そうだ、名古屋撃ちなんてテクニックもあった。)必死でやるものだから、コイン5、6枚使ったら、疲れて集中力が無くなり「もう終わろか?」ってことになった。
当時のインベーダーは記号の様な形で、今のTVゲームに比べたらホント単純なのだが、責めてくる迫力はかなりのものであった。小学生の娘と入った頃は、「鉄拳」だったかが流行っていた。酔拳を使う老人の3D画面にしばし見とれた。スペースインベーダーの後は、ギャラクシーを少しやっただけでゲームセンターとは御無沙汰だったので、「鉄拳」の映像の進歩にほんと驚いた。その後再びゲームセンターとは御無沙汰であったのだが、投稿によると休憩コーナーに畳を敷いたり、ポットにお茶などのサービスをしているゲームセンターもあるそうだ。お弁当、お菓子持参でゲームを楽しまれているお年寄りもおられるとのこと。時代の移り変わりを感じました。


2012.03.18
中学校の同窓会に行ってきた。6年ぶり(2006.07)である。担任だったS先生もお元気だった。今回は、クラス別に席が準備されていた。隣に座ったA君が思い出せない。帰ってからアルバムを見て思い出した。私の事を覚えていてくれたのに、本当にごめんなさい。6組の幹事であり、学年の幹事長的な存在で忙しく動き回るB君とも少し話をする事も出来た。向かいに座ったCさん、同年代とは見えない若々しさで、かつお酒も強い。そして爆弾発言をしたのだ。私の隣の隣に座っていたD君と中3の時キスをしたというのだ。二人は近所だった。「親には、D君と一緒に勉強すると言っておいて、D君の家でそんなことしてたの。」「中学3年生の時にか?」と思わず聞いてしまった。うなずいた彼女が言った。「D君はへたくそだった。私は2度目だったんだけど。」D君は苦笑いするのみで、この時は一言も発しなかった。後にCさんは、A君と「居酒屋」を唄った。カラオケは、私はクラス代表として6番目にタイガースの「君だけに愛を」を唄った。結構受けました。2年生の時に同じクラスだったE君と、挨拶することが出来た。彼とは、隣の隣の・・・かなり離れた町の模型屋まで自転車で行った記憶がある。そうだ思い出した。タイガーロケッティを買いに行ったのだった。美術の時間だったか学校で、バルサ材を使ってF1カーの様なデザインの車を作ったのだ。その動力にタイガーロケッティを使った。ボディを赤く塗ったのだが、光沢を出すため厚塗りした。ロケティの熱で塗膜が焦げたり、塗料が半乾きだったので気泡が出たりしたんだった。数人の友人が見守る中、校庭で導火線に火をつけて走らせたのだ。F君が亡くなったと報告があった。「くんにゃん」と呼ばれていた中学生の彼の顔が浮かんだ。

2012.02.19
約1年前の2010年12月、あるホテルの大阪本社広報担当の方からメールを頂いた。その会社のHPで、2011年1月の「開運スポット特集」に、私のHPにアップしているある神社の写真を使いたいとの事だった。私のサイトへのリンクは難しいが、画像の下にキャッシュを入れることは可能という。キャッシュの意味は分からなかったが、出典を明記して頂けるならお使い下さいと返事をした。年が明けた2011年1月メールに書かれていたURLへのぞきに行ったら、ありました。その神社の参道と本殿の写真計2枚が使われており、下に「写真提供:神社参拝記」との文字があった。
2012年2月、ふと1年前のこのことを思い出しそのホテルのHPをのぞいたら、トップページと「周辺スポット」のページに私の別の写真が掲載されていた。いつから掲載されていたのだろう。1年前は無かったはずだ。しかも、出典が書かれていない。広報担当の方に約束が違うと抗議のメールを出した。返事はまだ来ない。

2012.02.04
昨日の新聞にサイの角に関する記事があった。ワシントン条約で売買が禁止されているのに、最近密猟が急増しているという。角の粉末がガン等に効くと中国やベトナム等アジアで信じられている様で、密猟急増は、そういった国の裕福層が拡大していることと無関係ではないようだ。一本2千万円で密売されるという。幼稚園児の頃だったか、はしかにかかった時、お袋に犀角の煎じたものを飲まされた記憶がある。1日に数グラムで効果があるとのことだが、当時も今も裕福層ではない我が家において、犀角など口にする事が出来たのだろうか。物価は低かっただろうが、1ドル360円の時代だ。(Q:車のハンドルは何円? A:180円 なんてクイズもあった。)当時、サイが余るほどいた訳でもない。南アフリカに多く生息するそうだが、植民地時代、狩猟の対象となり、激減したそうだ。実際は犀角など入っていないのに、薬屋に犀角と言われて買った可能性が考えられるが、どうなんだろう。可愛い息子(私の事ですよ)が高熱にうなされているのを見かねたお袋が、貯めに貯めた臍繰りをつぎ込んでくれた可能性も御座います。その、はしかの漢方薬だが、色んなモノが入っていた。伊勢エビだか、蟹だかの甲羅を割った様なモノも入っていた記憶がある。薬研で細かくしなくても良かったのだろうか。

2012.02.03
私のHPを見てくださった方からメールを頂きました。パルナスピロシキについても書かれていて、「確かロッキーチャックの合間のCM」だったそうです。ロッキーチャックの名前は「そう言えばそんなアニメあったなぁ」と思い出しましたが、私はたぶん見ていなかったと思います。パルナスとアニメ関連で検索したら、「リボンの騎士」が出てきました。「リボンの騎士」だったら、小さな弟といっしょに見ていたかも知れません。弟はチンクのファンでした。弟が生きていたら、ピロシキとリボンの騎士で大いに盛り上がったことでしょう。YouTubeでもう一度パルナスのCMソングを聞くため検索していたら、「ロバのパン屋」が出てきた。これも懐かしい!大阪に住んでいた頃「♪ロバのパン屋はチンカラリン、チンカラリンとやって来る♪」というCMソングを鳴らしながら、ロバが荷車(ガラス張りの扉がついた棚にパンが並んでいた。)を引いて売りに来ていた。蒸しパンメインだった気がするのだが、食べた記憶は無い。母にせがまなかったのだろうか。時代が移り、ロバから自動車に変わっていった様です。ロバ、ロバと書いたが、実際に引いてたのは馬ではなかったのか。今更分からない。今見たって、ロバと馬の区別がつく自信は無い。

2012.01.20
今週初め、左腕が妙にだるかった。それは2日ほどで、にぶい痛みに変わった。そして左の首筋が、肩こりのひどい時の様な状態になった。朝目覚めた時は痛みはそんなに感じなくて、違和感がある程度なのだが、しばらくするとにぶい痛みを感じる様になり、腕を垂らした状態に放置できなくなる。手を膝の上に置いたり、腕を椅子の肘掛けに乗せたり、絶えず動かす様になる。これって、2年前の症状と同じではないか。今年もバイクに乗れないのだろうか。

2012.01.15
ラジオの深夜放送を聞き出したのは、フォークルの「帰ってきたヨッパライ」がきっかけだった気がする。友人が通学中の電車の中で面白い歌があると話してくれたのだった。深夜放送は、親父のトランジスターラジオにイヤホーンをつけて、布団の中にもぐって聞いていた。名張は、大阪や奈良に比べてAM放送が入りにくかった。お隣の国の放送はガンガン受信するのにである。笑福亭仁鶴さんや新野新さんが司会をする番組をよく聞いていた。番組は、パーソナリティにリスナーがハガキで曲をリクエストする形で進んでいた。リクエストする人達は大半がハンドルネーム(?)を使っていた。「『匿名希望』さん」が多かったが、思わず笑ってしまったのは「ドスケビッチ・オナゴスキー」さんである。数十年たった今でも記憶に残っている、素晴らしいネーミングだ。フォークル以外で覚えている曲は、由紀さおりさんの「夜明けのスキャット」だ。リクエストが多かったのか、曲を覚えてしまった。今でもカラオケで歌います。(笑)ほかに覚えている当時のリクエストは藤佳子さんの「新宿の女」彼女には「演歌の星」というキャッチコピーがあった。いや、ひょっとしたらリクエストではなく、コマーシャルだったのかもしれない。「巨人の星」が流行っていた時代だった。藤佳子さんは宇多田ヒカルさんのお母さんです。そう思うと時代を感じる。当時ラジオでしか藤佳子さんの声を知らなかったのだが、後にTVか何かで彼女を見たときは驚いた。彼女の声からは想像も出来なかった端正なお人形さんの様な方だった。

2012.01.11
もう一つ、母にせがんで買ってもらった食べ物がある。ピロシキだ。「パルナス ピロシキ パルナス ピロシキ パルピロ パルピロ パルピロ パルピロ パールーピーロー ロシアのおじさん言うことにゃ 本場の味よりまだうまい 家【うち】の坊やの言うことにゃ おやつは絶対こ〜れ〜」というコマーシャルソングが当時TVで流れていて、食べてみたくなったのだ。この歌は数十年たった今でも歌える。ピロシキは当時一個40円していたと記憶している。(自信無いが)当時40円だせば干しぶどう入り食パン(6枚切り)が買えた。(自信無いが)ピロシキは子供の私にとっても美味しかった。ただ、買ってもらった頻度は2〜3回位だった気がする。近くに買える店がなかったのか、それとも高価だったので母が敬遠したのか。「パルナス ピロシキ」で検索したらYouTubeにパルナスのコマソンがアップされていた。前半はパルナス・クレーモフのコマソンで、そうだったそうだった、この曲もあったんだと思い出たが、クレーモフは記憶に無かった。ピロシキのコマソンの方は、歌詞も私の記憶通りでメロディーOKでした。自信をもって歌えます。

2012.01.08
幼少時のアニメといえば「鉄腕アトム」だが、それより前といえば、ネズミと猫の追っかけっこのものが思いだされる。仲良く喧嘩した「トムとジェリー」のことではありません。もっと単純な絵だった。たぶんアメリカで造られたものだったと思う。昔はアニメに限らず、アメリカ製の番組が多かった。ひたすら、ネズミはチーズを奪おうとし猫はネズミを捕まえようとする、そんな単純なストーリーだったと思う。ネズミがあんなに苦労して奪おうとするチーズは、きっとものすごく美味しい食べ物に違いないと思った。母に頼みこんでチーズを買ってもらった。アニメで見るチーズは、6Pチーズの様な三角形をしていて幾つも穴が開いていたが、母が買ってきたのはマッチ箱の様な立方体だった。銀紙を外したらオレンジ色がかったチーズが出てきた。穴は空いていなかった。少しかじったが、期待外れの味というか、とんでもない味というか、残りは食べることが出来なかった。小さな私は、チーズにどんな味を期待していたのだろうか。しばし考えた結果、ひょっとしたら北海道土産のバターサンドの様な味ではなかったかと思った。
そんなチーズの初体験だったが、今では好物の一つだ。カマンベールチーズは、おやつにそれだけ一個食べることもある。冷蔵庫には「切れてるチーズ」が切らさずに入っている。チーズを使った料理のピザとかドリアも好きだし、スパゲッティには粉チーズを結構な量ふりかける。このあいだのハイキングには、6Pチーズをおやつとして持って行った。以前チキンラーメンの事を書いたが、チーズもそれとよく似た初体験でした。

2012.01.03
1日の新聞に「のってこ!」の記事が出ていた。新聞に出ていた例では、大阪枚方市に御自宅のある男性が東京に単身赴任されているのだが、会社からは月一回分しか帰宅の交通費が出ない。お子さんの学校行事には可能な限り出席してあげたいという思いがおありになる。そこで「のってこ!」を利用して同乗者を募る。大阪から東京までお一人様4000円で募集したら2名の方の希望があった。鉄道や飛行機を利用することを思えば、4000円は安い。「のってこ!」とは自家用車の相乗りの情報交換サイトのようだ。この記事で、そのようなサイトがありシステムがあることを初めて知った。
ためしに、今日その「のってこ!」を訪問してみた。
三重県鈴鹿発栃木宇都宮市着というのがあった。出発日時は3日18:00〜21:00だそうだ。希望負担額2000円という。新聞に出ていた先の例では東京大阪間は4000円だったから2000円はさらに安い。宇都宮市なら日光が近い。修学旅行で1度行ったきりの日光にもう一度行きたいと常々思っていた。仮に利用するとしたら、近鉄で鈴鹿まで出なければならないが、それでもメリットは大きい。
「のってこ!」で検索したとき、「のってこ!を考える」というブログが検索リストにあったのでこちらものぞいてみた。「うん、うん」とうなずきながら長時間読んでしまった。「のってこ!」を利用されるなら、「のってこ!を考える」をまず読まれることをお勧め致します。

2012.01.01
本年も神社参拝記をよろしくお願い申し上げます。

2011.12.24
今月始め2日(金)〜4日(日)の3日間、イガデハクという催しが伊賀市の"ゆめドーム"であり出かけてきました。イガデハクとは「伊賀でデザイン博」という意味だそうです。なつかしいものがありました。ゴムテッポです。カッコ良いですね。子供の頃に見たものと比べるとカラフルになってます。連発発射も出来るんです。SF映画に出てきそうな立派なものもありました。焼き物のお店、木工細工のお店、革細工のお店、等々店主と出品された作品の話をしながら廻っていたら瞬く間に時間が過ぎてゆきました。疲れて帰ろうと言う家族をベンチに待たせて、さらに一人で廻りました。(今度来るときは一人で来よっと。)
ゴムテッポ

2011.12.09
関所といえば鈴鹿の関とか、勧進帳の安宅の関、白河の関が思い浮かぶ。次に箱根の関が思いだされた。なぜか「入り鉄砲出女」とセットでインプットされている。百人一首にある「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」(蝉丸)も出てきた。通勤途上渋滞に巻き込まれ、関所をとりとめもなく思いだしていたのだ。渋滞の原因は小波田の関だ。朝通勤時間帯に国道165号線を走っていて名張の小波田地区にさしかかると、伊賀市方面からくる車の長蛇の列に出くわす。数百メートルの区間に3つある信号が渋滞の原因になっている。いつだったか帰宅時にこの渋滞に巻き込まれた。約束があり定時で会社を飛び出したのだが、予想外の所で車の流れが止まってしまった。「あちゃ〜、交通事故に巻き込まれたぁ〜」と思ったが、なんのことはない、小波田の関が原因であった。(「小波田の関」は私がかってに名付けたもので、世間では通用致しません。)この場所を車で通るときいつも思うのだが、これって、信号機の設定の問題ではないのだろうか。一つ目の信号機の近くで停車していて、信号が青になって走り出しても、二つ目の信号でひっかかることが頻繁にある。二つ目から三つ目でも同じだ。そのくせ165号線に合流する枝道は渋滞していないように見受けられる。なんか理不尽だ。

2011.12.03(その1)
27日の日曜日、春日奥山ハイキングに参加した。一週間前の今井町・畝傍山ハイキングの日、橿原神宮前駅に着いて解散というとき、Nさんから27日に春日奥山へ紅葉を撮しに行くが、良かったら参加しないかと誘われた。その時は、明確な回答をしなかった、というか出来なかった。週の半ばに疲れも取れて行く気になり、特別な予定も入らなかったので参加する事にした。奥山は、ネットで調べたこともある興味有る場所だったのだ。当日の朝はかなり冷えていた。紅葉を撮しに行くという言葉から、撮影メインかとかってな想像をして、風邪をひかない様にと厚着して家を出た。集合場所は近鉄奈良駅前にある行基さんの噴水。6名のメンバーが集まり9:30に出発した。興福寺の境内を抜け、春日大社の一の鳥居の前を通って、浮見堂のある鷺池辺りの風景を愛でる。志賀直哉の旧邸の前を通った時には、中学生の時に「暗夜行路」を読んだなぁとか、国語の教科書に「城之崎にて」があったなぁとか思いだした。道はいつからか登りになっていて、厚着していたのでコートの前を開けた。やがて左手に小川が流れる石畳の道を登るようになる。柳生街道なのだが、この辺りは滝坂の道とも呼ばれているようで、石仏もあり良い感じ。と言いながら、メンバーの後をどうにかこうにか付いて行く私は、撮影もなかなか出来ない。荒木又右衛門が試し切りしたと伝わる首切り地蔵のあるところでトイレ休憩。ここでコートを脱ぐ。荒木又右衛門は伊賀出身、池宮彰一郎「天下騒乱 鍵屋ノ辻」を前に読んだ。鍵屋ノ辻も伊賀だ。石の板に浮き彫りした様な等身大のお地蔵さん、たしかに首の部分が割れている。 同じ伊賀盆地に住む私は、なんぼなんでもそんな罰当たりなことはせんやろと、荒木又右衛門を心の中でかばっていた。首切り地蔵からさらに登ったところに池がある。そこで少し早い昼食をとる。Nさんは、ここの紅葉を期待されていたようだった。紅葉+池に映る紅葉という構図である。しかし紅葉はまだ早く、池の水も少なかった。(その2に続く)
春日奥山 春日奥山

(その2)
このあとは、未舗装だが、ごくたまに車も通る道を歩く。歩く人間は無料の道だが、自動車は有料である。高い木がそびえ、緑が深い。途中には鶯の滝もある。そして若草山の頂上に出た。標高342m、奈良盆地が見渡せる。若草山は、笠を三つずらして重ねた様な山容から三笠山とも呼ばれるようだ。すぐ隣南側にある標高283mの御蓋山と読みが同じなので紛らわしい。今回ネットで調べてようやく頭の整理が出来た。大昔に同窓会で若草山に登った記憶があるが、どうも一層目の笠までだったようだ。若草山頂上からの展望は見飽きる事がなかった。私達はここまで何時間もかけて到着したのだが、有料自動車道を使って車で簡単に来る事が出来る。さてこの後は奈良公園まで下るだけだったのが、私達は道を間違え、その有料自動車道を下ってしまった。「歩行・自転車禁止」の表示に気づいた時はかなり下った後だった。坂を戻って登る元気は無く、そのまま下る事にしたのだが、自動車道なのでかなり蛇行している。しかも後で地図を確認すると、道は北西方向に伸びていて、歩行距離が大幅に増えた。私はこの道を歩いているときにマメが出来て少々歩くのが辛かった。そして、下の料金所できついお叱りを受けたのは言うまでもない。
三笠山より御蓋山を見る 東大寺大仏殿と興福寺五重塔


2011.11.22
今日の朝日新聞に、今井町で「大量の土砂で埋められた、16世紀後半ごろとみられる堀の一部が見つかった。」という記事が出ていた。織田信長と和睦した際、その条件として埋められた可能性があるとのことだ。昨日の文章で、今井町は「門前町」と書いたが、「寺内町」の間違いでした。今井町は三重の堀で囲まれ土塁も造れており、武装都市の要素があるので門前町とは区別されるようだ。こそっと下の文章を修正致しました。

2011.11.21
先週末、ハイキングに行ってきた。お誘いを受けて今回で3回目の参加である。今回のメンバーは13名、例によってN2さんの案内で、集合場所の近鉄大和八木駅を9:30スタートした。今井町へは、八木西口駅の方が近いのだが、そこはハイキングなので、それもまた良しである。N1さんのメールでは、今回のコースは今井町散策と橿原神宮周辺とあった。盆休みから体重は2〜3kg増え体力は衰える一方の私なので、それを聞いて少し安心したのだが・・・
前日、今井町について少しググってみた。戦国時代の頃から一向宗の寺内町として発展した様だ。「海の堺」「陸の今井」と並び称されるくらいで、堺と同様自治権を持つまでになる。江戸時代元禄年間には「大和の金は今井に七分」と称されるまでになったという。グーグルアースで今井町の衛星写真を見ると、周辺の地域と比較して保存地区の密集ぶりが良く分かる。
東から西へ、西から東へ、今井町を散策した。、重文に指定され一般にも公開されている民家等が沢山あるのだが、ハイキングが目的なので今回はひたすら町の道を歩く。今井町へはまた個人で来ようと思った。
今井町から畝傍山へと向かう。神武天皇陵を過ぎ、畝傍山の北から巻くように西へ回り込み、畝火山口神社で昼食となる。当日の天気予報は「曇りのち雨」だったが、ここで雨がぱらつきだした。が、傘をさすほどでもない。登山用のバーナーでおすましを作って頂く。食後にはホットコーヒーも作って頂いた。おやつのおすそ分けも色々届く。その頃には雨も止んだ。神社の撮影をしていたら、畝傍山に登るという。お二人は、神社で待つという。私は躊躇したが、登る事にした。80歳のKさんを先頭に登る。ちょうど引っ張られるような感じで私も付いて行けた。って、私の体力は80歳の方より低いということか。いや、Kさんが人並み以上に強いってことにしておきます。畝傍山頂を往復し、畝傍山の裾野を西から南へ、南から東へと巡った。橿原神宮で少し時間を過ごし、橿原神宮前駅で解散となった。
写真は、皇帝ダリアです。歩いていて、高い位置にクレマチスの様な花が目に入った。クレマチスは今の季節には咲かない。近づいて良く見ると、太い茎がある。「こんな花見るの初めてやなぁ。」と言ったら、Mさんが「皇帝ダリア」と教えて下さった。住宅でそだてられている花々を鑑賞できるのも、ハイキングのたのしみの一つである。
メンバーの方々に迷惑をおかけすることもなく、無事ハイキングが終わった。帰宅したその夜は、一度も目覚める事無く8時間ちょっとをぐっすり眠った。私の睡眠時間は、平均するとだいたい6時間ほどなので、結構疲れていたようだ。翌日起きたら、かなり足腰にきておりました。その日はほとんど動かず、パソコンの前に座っているか、ベッドに寝っ転がっておりました。
皇帝ダリア

2011.11.13
私の忍者物初体験は白土三平さんの「サスケ」の可能性が大だ。「少年」という月刊誌に連載されていた。「サスケ」は忍術の解説(種あかし)があったが、「○○の術は前に解説したので省略する。」なんてのもあって、「ぼく、それよんでへんのに。」と悲しい思いをした。「隠密剣士」が初体験だった可能性もある。「月光仮面」に続いて大瀬康一さん主演であるが、忍者役ではなく侍である。仲間の忍者に牧冬吉さん演じる霧の遁兵衛がいた。牧冬吉さんは「仮面の忍者赤影」にも忍者役で出ていた。甲賀十人衆だったろうか、その頭領を「怪傑ハリマオ」のハリマオ役をしていた人が演じた。敵役だったのだが、そのかっこ良さにしびれた。最初に手に取った少年週刊誌は「少年マガジン」だったが、子供部屋にズラッと並んでいたのは「少年サンデー」だった。横山光輝さんの「伊賀の影丸」が連載されていた。影丸は木の葉隠れの術を使った。同級生のI君のお母さんが貸本屋をされていて、そこで借りたのが、これまた白土三平さんの「忍者武芸帳」であった。貸本漫画ということもあり「サスケ」と違い残酷な場面が有ったり、主人公影丸も含め、最後に影一族が全滅してしまうストーリーは子供の頃の私にとっては強烈であった。白土作品とは、その後「カムイ伝」、「カムイ外伝」、「忍法秘話」とお付き合いが続く。映画では「忍びの者」が思い出される。主演は市川雷蔵さんで、石川五右衛門役である。切られた腕がころがるシーンが衝撃的だった。百地三太夫役の伊藤雄之助さんも印象に残っている。映画では、百地三太夫と藤林長門は同一人物との説をとっていた。忍者の名前は、たとえば音羽ノ城戸の様に、何処何処ノ誰々という言い方をする。石川ノ五右衛門とかもそうだ。柘植、下柘植、楯岡、湯船等、伊賀地方の聞き慣れた地名が名前の頭に付いた忍者がいる。この地域密着型が良い。
忍者イラスト入りマンホールの蓋

2011.11.05
TVで「梟の城」をやっていたので見た。司馬遼太郎さんの原作は昔に読んでいた。主人公の伊賀忍者葛籠重蔵【つづらじゅうぞう】は中井貴一さんが演じている。天正伊賀の乱を生き残った重蔵が10年間身を潜めていたのは御斉峠【おとぎとうげ】だったが、師匠の下柘植なにがし(山本学)が御斉峠を訪れるシーンは赤目四十八滝で撮影したのではないかと思わせた。昔は遊歩道など無かったから、身を隠すには赤目四十八滝の方が適しているように思う。伊賀上野や伊賀町という地名から、伊賀忍者がいたのは伊賀盆地の北部北東部というイメージが強い。忍者を観光資源としてさかんに活用しているのは伊賀市であるが、名張にも忍者はいた。名張市竜口には、百地三太夫の御子孫が代々住まわれている屋敷がある。15年以上前弟が訪問したおりには忍者の武器のいくつかを見せて頂いた様だ。姪又は甥と百地さんとが同級生だったか、それともバスケットのクラブつながりだったか何かで、お宅にうかがう機会があった様だ。一般には屋敷を公開されておりません。昔は少し公開されていた様だが、手裏剣だかなにかが盗難にあったりしたそうだ。また伊賀の乱当時、竜口の隣の赤目町柏原にあった城が伊賀盆地では最も南に位置していたそうだが、ここが伊賀の乱の最終戦場だったと言われている。話は映画に戻るが、伏見稲荷大社の千本鳥居が出てきました。葉月里緒菜さんや火野正平さん演じる伊賀忍者がここで甲賀忍者に殺されてしまいます。伏見稲荷大社の境内もロケに使われていました。そして日吉大社。社殿に置かれているお目々パッチリの狛犬さん、お久しぶりでございます。この映画、美術も良かったです。だだ一点気になったことがあった。豊臣秀吉を殺害する目的で重蔵が大阪城へ忍び込むのだが、見回りをやり過ごすのに、庇にぶら下がっているとき「はーはー」と彼の息づかいが聞こえる。堀から揚がった時も同じだった。これは、私的には頂けない。忍者として情けない気がする。ヒロインは鶴田真由さん。私の好きな女優のお一人です。この映画を見る気になった理由の一つは、彼女が出演していたから。

(写真は伊賀市の銀座通にいた忍者)
忍者

2011.10.15
先日、金曜ロードショーだったかで「アナコンダ2」を見た。私は蛇は苦手なのだが、自身が安全な立場にある場合、恐いもの見たさが強く好んでみる。動物園に行けばニシキヘビを見たくなるし、アナコンダ2を見た後もYouTubeでアナコンダを検索した。「アナコンダ2」の蛇さん、CGが進歩して肌がたまりません。「アナコンダ1」のCGは、手抜きなのかヒルの様なヌメッとした肌になっているシーンが多かったように思う。アナコンダの移動スピードは「アナコンダ1」の方が異常なほど速い。見つけられたら逃げる事は不可能だ。「アナコンダ2」の方は、努力すれば逃げられるかも知れないという希望を与えてくれる。私は無理だろうけど。
小さい頃、近所の原っぱに昆虫採集に行った。しゃがめば幼い私の身体が草むらに隠れてしまう場所だった。バッタを見つけようと腰をかがめて草をかき分けながら進んでいたら、突然目の前に、見た事もない巨大な蛇の頭が現れた。一瞬凍り付いたが、脇目もふらず自宅まで走って帰った。私の恐い体験ベスト5に入る出来事だった。だが、成長してから思った。あれはショッカンだったのではないだろうか、と。
(ショッカン:当時、仲間で食用ガエルの事ををそう呼んでいた。)

 
2011.10.07
9月25日に柘植で斎王群行祭りが行われると友人から聞き、行く事にした。今年で9回目だそうで、柘植の都美恵神社から中柘植にある斎カ芝(頓宮跡)までの約2kmを群行するという。都美恵神社は三年ぶりだ。30分ほど前に着いたが、普段停める駐車場は一杯で小学校のグランドに誘導された。群行に参加される方々が都美恵神社の拝殿を背に勢揃いして、いよいよ始まりました。都美恵太鼓のメンバーを入れると衣装を着て勢揃いされた方々は100人近くおられたのではないか。衣装や小道具など手作りされたと聞いていたのだが、拝見すると凄いなぁと思う。天皇、妃と、斎王となる皇女との別れが再現される。斎王は輿に乗って伊勢を目指す。勢多・甲賀を経て柘植にやってきた斎王を歓迎する踊りが行われる。踊りのバックに流れる音楽はオリジナルだろうか。初めて聞いた都美恵太鼓も迫力があった。自分もやってみたいと思う。こんなとき、雨がぱらついてきて中断となった。私はここで都美恵神社を後にして次の目的地へ向かいました。斎カ芝へは又次の機会に訪問したいと思います。

斎王

都美恵太鼓の迫力に、思わずよそ見する斎王ちゃん

都美恵太鼓

都美恵太鼓


2011.09.11
以前、いつ爆発してもおかしくないオリオン座のベテルギウスのことを書いた(2010.01.11)が、最近BSでベテルギウスを取り上げた番組をやっていたので見た。超新星爆発が起きたときの地球への影響についても話していた。超新星爆発は有史以来7回ほど起こっているが、幸い地球への影響は無かった様だ。超新星爆発が起こるとガンマ線が放射されるという。ガンマ線が地球に届くと、地球を覆っているオゾン層が破壊されるという。結果太陽が発する紫外線を何年間も浴びることになる。実は4億年以上前に地球の生物が影響を受けたと思われる痕跡が、アルゼンチンの地層で見つかっている。(4億年前とは、恐竜が生きていた時代よりもっと前の大昔。)ある年代の地層からは、深いところで生息する三葉虫の化石は見つかるのに、海面近くに生息する三葉虫の化石が出ないのだ。紫外線の影響で遺伝子に傷を受けた海面近くの三葉虫だけが絶滅したと考える学者がいる。では今、地球上の生物は未曾有の危機に瀕しているのだろうか?いや、大丈夫だそうです、ご安心を。ガンマ線は地軸にそったわずかな角度に放出されるそうだ。ハッブル宇宙望遠鏡でベテルギウスの地軸を調べたら20度ほどずれているという。360度ある内の20度ってわずかな数値なんですけど、学者が大丈夫だと言ってましたよ。
ベテルギウスが爆発すると、満月の100倍の明るさで輝くという。その状態は3ヶ月ほど続くそうだ。昼でも見える明るさだから、「なんで冬に爆発してくれへんかってんな」と恨み言を言わなくてもいい。さあ、私が生きている間に爆発を見ることが出来るだろうか。

2011.09.09
「ウージーの部屋/ウージー’sチョイス/」に桜の写真をぼちぼちアップしてきましたが、ようやく2002年から今年2011年まで完了しました。いや、完了ではなく、どうにか各年度がそろったという程度でしょうか。今後微調整(探しては追加)して、2012年度以降も順次アップする予定でございます。御用とお急ぎで無い方は、よろしければ、のぞいてみて下さい。

2011.09.03
「プリーズ・プリーズ・ミー」でビートルズを知った。友人K1君がレコード(ドーナッツ盤=シングル)持っているというので彼の家に遊びに行った。彼のお母さんは美人だった。女性を見て美しいと思ったのは、この時が初めてではなかったか。沢山あるレコードの中には、クレージーキャッツの「スーダラ節」もあった。親のレコードだったかも知れないこの2枚を、私は借りて帰ったのだった。そして、彼のお父さんが亡くなった。どういう経緯で参席することになったのか記憶に無いが、私は葬儀の席にいた。喪服姿の美しいお母さんと、目を赤くして泣きじゃくるK1君を離れたところから見ていた。まもなくK1君は引っ越し、学校からいなくなった。
外国アーティストのレコードを買ったのは、ビートルズの「プリーズ・ミスター・ポストマン」が初めてだった。ラジオで聞いた「ハード・デイズ・ナイト」とタイトルを間違って買ったのだが、聞いて良かったので、後悔はしなかった。後にカーペンターズもカバーしてヒットした曲だ。
アルバイトをしていて、LPを買うことが出来た頃、ビートルズの「リボルバー」を買った。友人K2君が「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」と「アビー・ロード」を持っていたのでそれを買ったのだ。当時、この3枚がビートルズの名盤とされていた。好きな曲は「イリノア・リグビー」。そう覚えていたのだが、「エリナー・リグビー」が正しいみたい。(Eleanor Rigby)ウエス・モンゴメリーの演奏する「エリナー・リグビー」も良かった。
会社の昼休み、ドラムをたたきながら歌ったビートルズの曲は「レット・イット・ビー」だった。スローだし、難しい英単語が出てこないので歌いやすい。「歌いやすい」は、決してうまく歌えるという意味ではありません。他のビートルズの曲に比べて歌いやすいという程度の意味ですよ。カラオケでも2度ほど歌ったでしょうか。今度、機会があれば挑戦してみようか。
「アビー・ロード」(「アビイ・ロード」が正しいみたい(笑))のLPジャケットの写真は、録音に使っていたロンドンのアビイ・ロード・スタジオ前の横断歩道を写したものだ。現在でも、ビートルズを真似てここで記念撮影する人達が多いそうだ。かぐや姫のジャケットにも似た様なのがあった気がする。観光客もよく訪れるとかで、2010年、イギリス歴史的文化遺産に指定されたという。

2011.09.02
高野山の奥之院へ初めて行ったのは、30年位前だった。西国三十三ヶ所を廻り番外として御朱印目的で行ったのだった。その時は巨大な戦国武将の供養塔や、「宣伝目的ではないのか?」と思ってしまう様な奇抜な供養塔が印象に残ったのだった。その後家族と1度、ツーリング仲間のI君と1度で、今回が4度目のはずだ。たしか小学生低学年の頃だったと思うが、夏、家族4人で高野山に来ている。その時は宿坊に一泊した。トイレの外壁にヤモリだかイモリだか、見慣れないトカゲの様なのがへばり付いていたのを記憶している。この時、奥之院に参拝した記憶がまったく無いので、今回で4度目ということにしておく。少し前BSプレミアムで空海の特集を三夜連続で放送していたのを見た。
空海は、835年に亡くなってから現在まで、奥之院の御廟で生きておられるという信仰がある。現在も毎日二度お食事が御廟まで運ばれているそうだ。着替えも定期的に運ばれるという。映像を見ていて、無性に奥之院へ行きたくなった。そんなとき、会社のFさんが高野山へ行ってきたと言ったのだ。それを聞いた私は、しびれを切らした様にその週末の土曜日奥之院に行ったのでした。じっくり散策したいので、一人で行きました。奥之院には、御神木クラスの巨木が数えられない程有ります。さらに供養塔も何十万基とあるそうです。巨大な五輪塔も数多くあります。伊達政宗の五輪塔など、4、5mはありそうです。姿見の井戸なるものもありました。この井戸をのぞき込んで自身の影が写らなければ三年以内に亡くなってしまうと伝わります。先に来ていた婦人がのぞき込み「あったわ!三年は大丈夫やね。」と連れに報告していた。私ものぞき込んだ。影は何処だ!?頭を振りながら井戸の底をさがしたら見つけることが出来ましたよ。側の掲示には「最近は自分の寿命をたしかめようとのぞき込む勇気のある人が多い」とあったが、後から来たご夫婦ものぞき込んでました。隅から隅まで廻るつもりでいましたが、日頃の運動不足がたたり3時間を超えたところでギブアップとなりました。奥之院だけで終了し、丹生都比売神社に向かいました。
高野山奥之院

2011.08.15
小窓までの高さの本箱が欲しくて、リサイクルショップに行ってみた。目的の本箱は無かったが、大きな本箱2つ分位の古本が売られていた。初めての店だったので一通り品物に眼を通してから、古本を物色した。「十兵衛両断」(荒山徹著)を見つけた。以前図書館で借りて読んだが、もう一度読みたくなり、定価の1/5ほどの値段だったこともあり買ってしまった。柳生物の剣豪小説だ。って書いてから、「柳生物」って言葉あるのだろうかとネット検索したら、ありました。(笑)柳生物といえば「柳生武芸帳」(五味康祐)がある。学生のときに読みしびれました。「十兵衛両断」にも出てきた柳生烈堂が敵役となる「子連れ狼」(小池一夫原作)も柳生物と言えるかも知れません。これも学生の頃、友人の下宿で、友人が買っていた「漫画アクション」で読みました。のちに、名張の町中にある書店が閉店するとき、三割引で全集を買いましたよ。今私が居る部屋を見渡したら「覇剣」(鳥羽亮著)が眼に入った。こちらは宮本武蔵と柳生兵庫助の対決を描く。週刊新潮は「柳生武芸帳」を連載していた頃「眠狂四郎無頼控」(柴田錬三郎著)も連載されていて、両作品は週刊新潮の売り上げに大いに貢献したという。眠狂四郎シリーズも、学生の頃文庫で全て読みました。時代小説は結構読みましたが、思い出されるのは、組織の非情さやニヒリズムを根底としたものの様です。

2011.08.13
「絶対王者サムソン 失速で岐路」という文字をパソコンで見たとき、10年以上前のことを思い出した。会社で使っていたパソコンのCRTが、急に真っ黒けになった。それは14インチのNEC製のものだったが、当時NECのそのサイズは4万円位していた。仕事はおいといて、すぐに買いに行った方が良いと判断し店に行った。店には、なんと17インチのCRTが2万円代で売られていたのだ。14インチを使っていた私の目には17インチはでかかった。エクセルなんか使いやすそうだなぁと思った。どこのメーカーだろうととロゴを見たら、それがサムソン製だった。聞いたことのないメーカーだったが、17インチの魅力に勝てずそれを買ったのだった。その当時名前も知らなかった企業が、いつの間にか「絶対王者」になっており、さらにその王者が「失速」と言う。10年一昔なんて言葉があるが、本当に世の中の流れは早い。ちなみに、今私が使っているスマートフォンはサムソン製でございます。

2011.07.24
コロッケといえば、大阪に住んでいた頃美味しいコロッケを作るお店があって、「いろはのコロッケ買うてきて。」と、母からよく買いにやらされた。『いろは』は屋号で、本業はお肉屋さんである。いろはのコロッケは美味しかったので、私は喜んで買いに行った。家から遠かったので、いつも自転車に乗って買いに行った。今yahoo地図で確認したらその距離は1km余り。小さい頃はその1kmが遠くに感じられたようだ。私が買いに行くときは、一番乗りの時が多く、コロッケを揚げる油は白く固まっていた。ラードかヘットを使っていたようだ。鍋に火を入れ、白い油が溶け出して温度が上がると、冷蔵庫から琺瑯のトレーを出してくる。トレーは肩幅位の大きさがあったと思うが、コロッケは横に立ててびっしりと入っていた。家に帰ると、買い物に行ったお駄賃(御褒美)に揚げたてのコロッケを一つもらえた。いろはのコロッケは少々高かったが、表面はカリッとしているのに、中身がジューシーで柔らかく、いかにもお肉が沢山入っていそうな美味さだった。
十年近く前、昔住んでいた辺りをぶらついたことがあった。その帰り、いろはのコロッケを是非食べたいと思い、お店に向かった。このへんだったと思える場所に来たが、それらしき店が無い。昔無かった道が出来ており、この道の所に店あったとしたら立ち退きされた可能性もある。他の場所でお店をされているのかも知れない。諦められず、たまたま通りかかった男性に声をかけた。「昔、この辺りに『いろは』というお肉屋さんがあったと思うんですけど、ご存知ないですか?」「そこです。」と、指さされた先を見ると、店ではなく普通の住宅があった。「私はその家の者です。」と言われたのには、少々驚いた。奥様のご両親が引退されて店をたたまれたそうだ。「実は、私が子供の頃・・・」「あの美味しさが忘れられず・・・」

2011.07.17
昨日の朝日新聞に以下の記事が出ていた。国の文化審議会が伊賀市丸柱の長谷園にある登り窯を含む三重県内の建造物12件を登録有形文化財に指定するよう、文部科学相に答申したとのこと。

この登り窯には以下の掲示がされておりました。
『旧登り窯 この登り窯は、江戸時代・天保三年(1832年)の創業時より昭和40年代(1970年頃)まで使われていた窯です。かつては、この16の部屋を焚きあげるには15〜20日間を要しました。また、この大きさ(16連房)で、歴史あるものとして現存している登り窯では日本でこれだけだと言われております。 長谷園』

毎年、5月2.3.4日に永谷園では窯出し市が開かれますが、この登り窯の前に、陶芸体験コーナーが設定されます。私も陶芸体験に何度かチャレンジしているのでおなじみの場所になっております。

12件の中には長谷園の大正館も含まれている。こちらは窯出し市の時には喫茶店になっていたように思うが、普段はどうなんだろう。
長谷園の登り窯

2011.07.12
司馬遼太郎さんの「街道をゆく」巻24の近江散歩に「伊吹のもぐさ」の話が出てくる。『延喜式』には諸国から朝廷に献上される薬草が列記されており、近江から献上される薬草は73種類で一番多く、そのほとんどが伊吹山で産するという。その代表的なものがお灸のもぐさである。もぐさの原料はよもぎだったのだ。初めて知った。お灸には縁の無い人間であるが、粒あんの入ったよもぎ餅は好きである。話をもぐさに戻すが、伊吹山の八合目辺りに自生しているよもぎが、もぐさとしての品質がよいという。
ふと百人一首の「・・・えやは伊吹のさしも草 さしもしらじな・・・」を思い出した。「伊吹のさしも草?」ひょっとしてさしも草というのはもぐさのことだろうかと思い調べたら間違いありませんでした。自身の推理が当たったので少し気分が良かった。ついでに、忘れていた「・・・」の部分を入れると、「かくとだに えやは伊吹のさしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」となる。
伊吹山

2011.07.09
ドライブインや道の駅などで食べる揚げたてのコロッケ、美味しいですよね。あの美味しさを簡単に家で味わうことができる方法を最近知りました。スーパー等で買ったコロッケ、半日ほどするとカリカリ感が無くなってくるんですけど、オーブントースターで焼くと美味しさが倍にアップ致します。「焼く」というより、「揚げる」に近い感じでしょうか。薄め小さめのコロッケなら、5分程度で揚げたての状態になります。コロッケの表面は、揚げ上がって天ぷら鍋から取り出したときの様に油がはじけています。前日に買ったコロッケを翌日の朝オーブントスターで焼いて(揚げて)食べております。朝シャンならぬ、朝コロであります。私、早朝にカレーでも美味しく頂ける人間でございます。

2011.07.05
Fさんとの二人旅で、滋賀に行った。今回はFさんの運転で、私はナビゲーター、と行ってもちゃんとカーナビの女性の声が案内してくれました。最初に長浜港から竹生島に渡り、都久夫須麻神社に参拝した。
長浜港にもどり、まずは鳥喜多さんで昼食。親子丼を注文。ふわふわ玉子に煮汁も多くて私の好み。それに生卵のトッピングもされて580円也。安いし美味いですよ。都久夫須麻神社でおみかけしたカップルも席に着かれておりました。
次に黒壁スクエア近辺を散策。大通寺を出てから、こっちに行ってみようと辻を曲がったら、真っ昼間なのに街灯が灯る道に出た。と、一瞬思った。光っていたのは街灯の傘だった。銅で造られているのだろうか。「十里街道 職人まち」と書かれた掲示もあった。長浜へは、楽市楽座で何度か訪れているがこの道を歩くのは初めてだった。
最後は、多賀大社にお参りする。私は、12年ぶりの参拝である。当時は正面から進み、正面から帰るという感じで、摂末社などを巡るという楽しみを知りませんでした。今度参拝するときは寿命石も必ずチェックしようと長らく思っておりましたが、やっと実現致しました。Fさんに、「摂末社も廻りたい。」と言うと、「せっかく来たんだから。」という暖かいお言葉を頂きました。
真っ昼間なのに街灯?

2011.06.26
縄文時代の約5500年前、大阪は海(河内湾)だったという記事が、朝日の文化欄に出ていた。北は千里丘陵、東は生駒山麓、南は八尾市の南(八尾空港あたりになろうか)まで海だったそうだ。上町台地は当時も陸地だったようだ。ちょうど南側から突き出した半島の様で、大阪湾と河内湾を別けている。半島の先っぽに大阪城が位置する。河内湾の想像図は、西を上にしてみると宍道湖に見えなくもない。
上町台地といえば環状線桃谷駅近くの細工谷に、親父、私と親子二代でお世話になった親戚があった。中学生の頃、Kさんに英語を教えてもらうため、私は自転車で細工谷に通っておりました。
小さい頃、伊勢湾台風で我が家は床上浸水した。当然、我が家のあったところは、縄文時代は海だった。一旦近所の小学校に避難したが、しばらくして親父が迎えに来てくれた。まだ水は引いていなくて、親父に肩車してもらい移動したのを覚えている。連れて行かれたのが、上町台地にある細工谷の親戚の家だった。

2011.06.07
私が使っているパソコンのCRTだが、最近、一瞬電源が落ちかけてすぐに復帰するという様な症状が何度か起こっていた。多いときは1日に数回起こった。いよいよ寿命がきたかと思った。このCRTは1998年にパソコンと一緒に買った。(このとき、Windows98使いになったので覚えております。)たしか高輝度ブラウン管だったと思うが、13年間使っていても色は美しい。今はCRTなど売っていない。液晶の知識はまったっくない。どんな機種を買えばいいのか、ネットで勉強しなければならないなぁ。ディスプレイを買い換えるとなると、ケーブルの選択、ドライバーのインストールなど余計なことに頭を使わなければならないなぁと思っていたら、ここ一週間ほど症状が出なくなった。喉元過ぎればなんとやらで、液晶のことは忘れCRT意識することなくひたすらパソコンを使っている自分がおります。

2011.06.06
弟が亡くなってから、初めて弟の夢を見た。
会社の先輩二人を自分の車に乗せて、会社を出た。500mほど走ってから、弟を乗せるのを忘れた事に気づいた。先輩二人に、「先に歩いて行ってもらえませんか?」と頼み、会社へ引き返した。待っていた弟は、小学生の時の弟だった。弟を乗せ、会社を出ようとしたが、退社する社員の車が沢山止まっていて混雑していた。弟を乗せた後の車は、なぜか軽自動車のバンに変わっていた。しかも屋根にレッカー車の様なクレーンがついていて、運転席からでも前に長く延びているのが見える。多くの停車中の車にぶつけない様に出ようとするが、なかなか出られない。タイムカードを押す機械が警備室にあるから渋滞するのだ。やっと会社を出て、先輩二人を追いかけるが、見当たらない。退社して歩いて帰る人達が多くて見つけにくいのだ。そうだ、携帯電話をかけようと思った。ところが、携帯電話のボタンをなかなか押すことが出来ず苦労する。キーに貼り付けてある「愛」という字が邪魔なのだ。直江兼続の兜にあるのと同じ字体だった。指を潜り込ませるのだが目的のキーになかなか届かない。

2011.06.04
私、ブラウザのホームページはyahoo!に設定しております。今日開いたら、「瀬古氏の世界記録破られる」という見出しがあり、おもわずクリックした。破られた記録とは、トラック男子3万メートルのものだった。瀬古さんが持っていた世界記録は1時間29分18秒8で1981年に樹立したものだという。実に30年前の記録だ。破ったのは、モーゼス・モソプというケニアの選手で、1時間26分47秒4の世界新記録をマークしたそうだ。
陸上競技も無知な私は、瀬古さんがそんな記録を保持していたことを知らなかった。ただ、瀬古さんが出場するマラソン競技の放送は、かならずと言って良いほど見ていた。とにかく強かった。忘れられないのは、タンザニアのイカンガーとの一騎打ちだ。私の頭の中では、「タンザニアのイカンガー」で一つの単語となっているくらいである。トップのイカンガーにやや遅れて陸上競技場に戻ってくる。約42kmを走った後の、残り数百メートルのトラック勝負である。ゴールまで100mほどのところで瀬古さんはイカンガーをスパッと抜き、あっという間に差を広げゴールした。このとき残り100mを12秒ほどで走ったというのだ。
You Tubeに動画があるかも、と思い検索したら、ありました。2度見ました。2時間以上かけて実況を見ていた当時と比べれば、2分の映像ではさすがに感動は少なかったですけど、やっぱ瀬古さんすごい。

2011.05.29
以前幽黙さんのブログでJunさんが、「六甲山頂東、芦屋側にある白山神社から加賀の白山が見えると聞いたが本当だろうか」とCommentされたことがあった。興味を持った私は、カシミール3D(フリーウエアソフト)でシミュレーションしてみた。そしたらなんと、ちゃんと見えるではないか。
そもそも六甲山の白山神社は、加賀白山を遙拝できる場所と分かってその位置に創建されたのだろうか?(Junさんによると、石の祠に慶長十八年(1613)に再造と書かれているそうで、白山神社創建はそれより古いことになる。)もしそうならすごいことだ。加賀白山と六甲山の間には、当然沢山の山々があるわけで、それらの山越に白山のピークが少し見えるだけなんだが、それが加賀白山であるとなぜ分かったのだろう?現在ならパソコンが無くても、地図上で線を結び線上の標高をチェックすれば予測することが出来るとは思うんですけど。
いつだったか営業マンが、ナビを使い出してから全く道を覚えられないと言っていた。便利になるほど過去の人間が持っていた感覚の一部や能力の一部が退化していくのかも知れない。昔の人は、星や太陽の運行や位置からGPSの様な能力を発揮したのだろうか。地形を読む能力は、生活してゆくため戦に勝つための切実な情報として最重要なものだったのだろう。幽黙さん曰く「古人驚くべし。」

右の図は、六甲山から加賀白山方面をカシミール3Dでシミュレートしたもの(部分)。「白山(御前峰)」「大汝峰」と書かれた図中央の山が加賀白山。
六甲より白山を望む

2011.05.28
パンパカパ〜ン!!
ついに上がりました。
マインスイーパ

2011.05.03
私、マインスイーパの上級上がった事ありません。
この休み、ホント何年かぶりに挑戦してみました。
そしたらなんと、初めて残り20個を切ったのです。
013という数字が見えますか?
記念に画像を残しました。
そして、この後、きっちり地雷を踏みましたヨ。

マインスイーパ

2011.04.13
9日、弟の一周忌の法要があった。朝から小雨が降っている。午後に雨があがるとの予報だったが、いつまでも降っていた。名張川沿いの料理旅館で会食があった。次の料理が来る間、ふと大きな窓の外を見ると、雨にけむる桜が遠くに見えた。やや青みがかった桜が美しかった。人間の営みとは関係無く、春は来て桜が咲く。窓の外を眺めながら、今年は名張の桜を巡ろうか、などと思っていた。人々が集まる桜の沢山咲いている場所ではなく、「あ! こんなところに桜がある」というような場所を探しながら巡るのだ。
そして翌日日曜日の早朝、カメラを持ってバイクで出かけた。

2011.02.17
この冬は寒い。朝家を出るとき、車についている外気温表示をチェックする癖が付いた。マイナス3度はざらである。いつだったか途中でマイナス4度が表示されこの冬の新記録だ等と思っていたら、伊賀市なのだが、標高の高いところから通っているF君が言うのには、15日の朝マイナス7度だったそうだ。名張でも、平野部と山沿いや山間部とでは、気象条件がかなり違う。赤目方面からきた車の屋根がまっ白になっていて驚いた事もある。
若い頃、マイナス8度を平地で経験した。当時住んでいた社宅に風呂は無く、会社内の風呂を使っていたのだが、風呂から出て、3分もたたない内に濡れた髪の毛が凍っていることに気がついた。タオルも凍っている。警備室外に最高最低温度計があるのでチェックしたらマイナス8度だった。社宅ではこんなこともあった。冬の朝、昨夜の飲み残しのコーヒーが凍っていたのだ。部屋の温度を確認したら、マイナス3度だった。またある時、金曜日に自宅に帰り、日曜日に社宅に戻ったら何か音がする。鍵を開けて中に入って驚いた。トイレの手洗いの配管が凍って破裂し、水が勢いよく噴き出していたのだ。炊事場の蛇口は凍結防止のため少し水を出しておくのだが、トイレの手洗いはそのままにしていたのだ。吹き出した水は隣の部屋の畳までビシャビシャにしていた。

2011.02.16
この冬は寒い。名張でも数回雪が積もった。先日14日、出勤時は何ともなかったのに、仕事している間に雪が積もり、15時頃気がついたら外は銀世界になっていた。遠方から車で来ている人は早退した。定時のチャイムが鳴ったらほとんどの人が帰宅した。私は遅れる事30分で退社したのだが、渋滞のために枝道から国道に出ることが出来なかった。前の方で事故ってるのかと思い、途中でUターンしてもう一つの枝道から国道を目指したが、こちらも同じだった。その間の走行距離は2〜3km程度と思うが、時間は30分以上経過していた。こんな調子で自宅まで帰るのに絶えられないと思い、会社に引き返して仕事をすることにした。会社からMさんに電話してみた。通常なら車だと20分で帰宅できるMさんだが、1時間半かかったという。国道は時速10km程度の流だったそうだ。20時頃、国道が20〜30km程度で流れているとの情報が入り、帰宅することにした。どうにか絶えられる速度だったが、普段の倍以上の時間がかかってしまった。
私の車はスタッドレスを履いているので、この程度の雪はどおって事は無いのだが、車全体の流が遅いと如何ともしがたい。

2011.01.30
実は昨年の11月末、いつものメンバーで越前に蟹を食べに行ったのだ。三冬連続である。敦賀に着いて最初に、一昨年行き損なったお魚市場へ行った。10時前なのに、駐車スペースを探さなければならないほど車が停まっていた。まだ時間に余裕があって、次は敦賀港に行く。旧敦賀港駅舎を活用した鉄道資料館があったのでのぞいてみた。高校通学時、伊賀線で使われていたのを見たタブレットが展示してあった。改札ハサミもあった。昔は、改札は駅員が行っていた。一枚一枚切符を受け取り、改札ハサミで切符に切り込みを入れていた。定期券はハサミを入れる必要がないので、その間ハサミをカチカチ鳴らしている駅員がいたっけ。もう一つ見入ってしまったのがシベリア鉄道の資料だった。大きな地図が掲示してあり、日本から、イギリスを含むヨーロッパと赤い線でつながれている。航空機が発達するまでは、シベリア鉄道を利用すると東京−パリ間を最速の15日で結んだという。(1935年当時)シベリア鉄道の東側の始発駅があるのはウラジオストックで、日本の窓口は敦賀港である。
なんで今頃2ヶ月前の話をしているのかというと、大滝詠一さんの「さらばシベリア鉄道」(太田裕美さんも歌っている)と、敦賀の鉄道資料館でみたシベリア鉄道の資料が私の頭の中で今一つになったのだ。「さらばシベリア鉄道」はOさんの持ち歌だ。Oさんがこの曲を歌うのを初めて聞いたとき、私は実はこの歌を知らなかった。Oさんが歌うのを何度か聞く内に、メロディを覚えた。
「君の手紙読み終えて切手を見た スタンプにはロシア語の小さな文字」というフレーズがある。そうだったのだ。恋人は鉄道資料館でみたあの赤い線をたどって遠ざかっていったのだ。

(写真は、鉄道資料館にあった地図の一部)
シベリア鉄道の地図

2011.01.09
会社での昼休み、話のなりゆきから、私は好きな女性の名を告白してしまった。今まで家族にも話したことはなく、そっと胸にしまっていたのだが・・・。その女性の名はイングリッド・バーグマン。彼女が出演した映画は4作品ほど見ているが、「カサブランカ」のバーグマンが一番好きである。この映画、日本では昭和21年に封切られたという。その後に作られた「ガス燈」は、母が若い頃映画館で見た映画である。バーグマンの「ガス燈」、グレア・ガースンの「心の旅路」は小さい頃から母に良く聞かされていたので、脳味噌にインプットされているのだ。
その時会社で、バーグマンの美しさを言葉で表現出来なかった私は、週末、「カサブランカ」のDVDから彼女が出ているシーンをコピーして、写真サイズを変更して自分のパソコンから自分の携帯に送り、待受画面にして画像を会社に持って行ったのでした。「カサブランカ」のDVDは、最初からまた見てしまいましたヨ。(笑)
(追記:グレア・ガースンも美しい!)

2011.01.04
年末に同僚から、「火天の城」のDVDを借りた。山本兼一さん原作の同名小説の映画化だ。本作は読んでませんが、「利休にたずねよ」は面白かった。「火天の城」は安土城築城の物語で、西田敏行さん演じる大工の棟梁が主人公だ。舞台は戦国時代だが、戦闘シーンは一切無い。ストーリーは省略しますが、安土城、、映画の中では、雛形は燃えたが実物が完成して「THE END」でした。
ボーナス盤にロケ地の紹介が入っていた。信長が棟梁(西田)を訪ねるシーンは下鴨神社で撮影されたという。信長が馬で走ってくるのを正面から撮影している。おそらく糺の森でしょう。安土城の親柱にする檜を西田棟梁が木曽で探すシーンがあるが、これは実際に木曽で撮影されている。寝覚ノ床も登場していました。ただし親柱になる檜の巨木を見つけるシーンは、台湾で撮影されたようだ。現在の日本では、親柱に出来るような檜の巨木が見つからなかったということでしょう。日吉大社の大宮橋ではないかと思われるシーンがありましたが、こちらはボーナス盤では紹介されておりません。

(写真は安土城址)
安土城址



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