吉野山口神社【よしのやまぐち】(奈良県吉野郡吉野町山口)
参道入り口
標柱には「式内 吉野山口神社 高鉾神社」の文字
手水舎
手水鉢の上に龍の首がドカンと乗っている感じ。横から見るとちゃんと胴体もありました。
掲示
手水鉢
仙境、竜門瀧の清泉を昔は竹樋で引いていた。
延宝七年(一六七九)十一月六日の造立、大正時代に県道が改修され、鳥居前からここに移転された。
拝殿
圧倒される建物です。
天満宮御宝前と書かれた灯篭 |
高鉾神社御宝前と書かれた灯篭 |
拝殿前の灯篭と狛犬
掲示
灯篭(徳川吉宗公寄進)
代々の紀州藩主は江戸への参勤交代の途中、必ずこの大宮に参拝、長途の安全を祈った。紀州藩主吉宗公は、正徳六年(一七一六)五月一日徳川本家を継ぎ、八代将軍となった。
この二基の灯篭は、年来の御加護に報いるために寄進したもので、他の神社にあまり例を見ず、この大宮のあらたかな霊験がしのばれる。灯篭の銘に、
高鉾神社御宝前 天満宮御宝前
正徳六星次丙申夷則上澣【いそくじょうかん】
(七月上旬の意。この年は六月二十二日に改元しているので正しくは享保元年となる)
吉野山口神社
拝殿の後方に鎮座
吉野山口神社本殿
ある程度時間が経過し、やや落ち着いた感じの彩色が美しい。
掲示
吉野山口神社
御祭神 大山祇神【おおやまつみのかみ】
延喜式神名帳に名を連らねた神社であったが、明治以後は村社となった。中古天満宮と呼ばれたが、これは天候を司る神である天神【あまつかみ】信仰から天神とたたえられ、あたかも菅公を祀るかのように信じられたためであろう。明治以降元の社名に改められた。
拝殿の前にある二基の灯籠【ろう】は、八代将軍徳川吉宗公が、参勤交代の長途の安全を祈って寄進されたものである。因みに当社の横を通る県道が、江戸へ通じる、高見越えの伊勢街道である。当社は古くから山の神、降雨止雨を司る神として信仰されている。
高鉾神社
吉野山口神社の向かって右側に鎮座
高鉾神社本殿
蟇股が無いが、こちらも同じように彩色が美しい
掲示
高鉾【たかほこ】神社
御祭神 高皇産霊神【たかみむすびのかみ】
延喜式神名帳に記載された神社であったが、明治以後郷社として格付けされた。最初竜門岳山頂に祀【まつ】られていたが、約五百年前、ここ吉野山口神社の境内に遷【うつ】され、両神社とともに、竜門郷の総社として崇められている。今も竜門山頂にある嶽【たけ】神社内、高鉾神社の元宮であるとされている。本殿の建築が、室町時代の形式をとどめていること及び、社殿中央にある一基の灯籠に文亀三年( 一五〇三)の銘があり、遷宮記念に奉献されたものでないかと言われている。昔から、農耕の神・縁結びの神・命ごいの神・安産の神として崇敬【すうけい】があつい。
意賀美神社
吉野山口神社の向かって左側に鎮座
方向を変えて御神木を見る。(写真右の建物は拝殿)
掲示 本地堂跡 古来山口神社の別当寺として宮寺-本地堂があり、その鐘楼には建長八年(一二五六)銘の釣鐘があった。これはもと添上郡辰市村(現奈良市南部)の廃寺聖峯寺のもので、方々を転々とした末に、伊勢相可【おおか】の豪商大和屋某が寄進したもの。(現在は佐々羅意運寺所有)明治の神仏分離のため廃寺となり、最初は竜門小学校に転用されたが、明治十年ごろ、破損甚だしく、取り壊された。その跡に牛の守り神。 牛滝さんとして祭り続けてきている。 ← 写真の左中ほどあたりに当掲示と牛滝社の祠がある。 |
急に参拝を思い立った。
天気予報を見ながら、「天気がよさそうだし、気温もそこそこ上がるみたいだ。バイクに乗ろうか。」とぼんやり思った。
そして、「そうだ、吉野山口神社へ行こう!」と思った。(「そうだ、○○に行こう!」なんてキャッチコピーがあった気がすると後から思った。)
こんなことが時々ある。突拍子もなくお呼びがかかり、何の抵抗もなくすなおに行こうと思う。
道中の桜を楽しみながら到着したら、参拝客は私一人。神社の境内にも桜が咲いておりました。
延喜式神名帳大和國に記載の山口神社十四社は以下の通りです。
夜支布山口神社【やぎう】、伊古麻山口神社【いこま】、巨勢山口神社【こせ】、鴨山口神社【かも】、当麻山口神社【たいま】、大坂山口神社【おさか】、吉野山口神社【よしの】、長谷山口神社【はせ】、忍坂山口神社【おしさか】、飛鳥山口神社【あすか】、畝火山口神社【うねび】、石村山口神社【いわれ】、耳成山口神社【みみなし】、都祁山口神社【つげ】
写真:2020.04撮影
home 作成:2020.04.14