畝火山口神社【うねびやまぐち】(奈良県橿原市大谷町)

畝傍山

北西から見た畝傍山
大和三山の一つ畝傍山(標高199m)の西麓、大谷集落を東に登った山懐に畝火山口神社はある。昭和15年までは山頂にあった。
古来、延喜式内社畝火山口坐神社は皇室に舎殿の木材を奉る山の神を祀った山口神社六社の一つであった。




神社入り口

右手に畝傍山山頂への登山道がある




拝殿

拝殿
モミジが色づき始めています。
参拝したのは2011年11月18日。偶然だが、前回参拝したのは2001年の同月同日だった。

畝火山口神社の紅葉

2001年11月18日撮影




拝殿の奥に本殿が見える

拝殿、奥に本殿




本殿

本殿

境内掲示

式内大社 畝火山口神社
  祭神
   気長足姫命
【おきながたらしひめのみこと】
   豊受比賣命
【とようけひめのみこと】
   表筒男命
【うわつつのおのみこと】
 飛鳥・奈良時代から朝廷の崇敬篤いと伝承されている当神社が記録に見えるのは大同元年(806年)「新抄勅格符鈔」に神封一戸を寄せられたとあるのが最初である。
 貞観元年(859)正五位下を授かり延喜の制では明神大社として官幣及び祈雨の幣に預かったことが「三代実録」に、又、延喜式祝詞に皇室の御料林守護の為山麓に山神の霊を祀るとあり、大山祗命を御祭神としていたことが伺える。
 文安三年(1446)「五郡神社誌」に畝傍山口神社、在久米郷畝火山西山尾とあり、当時は西麓にあったとされている。天正三年(1575)の畝傍山古図では、山頂に社殿が描かれており、この間に山頂へ遷座されたことが明らかで口碑に当時の豪族越智氏が貝吹山に築城の際真北に神社を見下ろすことを恐れて山頂に遷座したとあるのと符合する。
 「大和名所図絵」にも昔畝火山腹にあり、今山頂に遷す祭る所神功皇后にてまします。畝火明神となづくとあり、当神社の御祭神神功皇后が朝鮮出兵の際応神天皇をご安産になられたとの記紀の伝承により今に「安産の守護」として信仰されている。
 主神であった大山祗命を境内社に祀り、本殿に気長足姫命・豊受姫命・表筒男命の三神を奉祀したのもこの頃かと思われる。
 神社名も畝火坐山口神社から畝火明神・畝火山神功社・大鳥山などと呼ばれてきたが明治に入って旧郷社「畝火山口神社」と定められ俗にお峯山と呼ばれてきた。
現在の社殿は昭和十五年皇紀二千六百年祭で橿原神宮・神武天皇陵を見下し神威をけがすということで当局の命により山頂から遷座した皇国史観全盛期の時勢を映した下山遷座であった。

神功皇后

拝殿に掲げられていた絵馬
中央が神功皇后(= 気長足姫命 = 息長帯比売命)、
右手に武内宿禰【たけのうちのすくね】、武内宿禰がだっこしているのは神功皇后の息子、後の応神天皇(のはずだ)




摂末社

摂末社
春日造りの祠??   高良神社、八幡神社、厳島神社   春日神社、埴安彦命神社、大山祗命神社




祓戸大神

祓戸大神




陰陽石

陰石・陽石
子授けの御利益があるという。




畝傍山山頂にある畝火山口神社社殿跡

畝傍山山頂にある「畝火山口神社社殿跡」(石柱文字)




畝傍山山頂 住吉大社に「埴使」【はにつかい】という神事がある。祈年祭、新嘗祭に先立ち、年二回、この両祭に用いる土器を作るための埴土を、畝傍山山頂で採取するため使いを派遣する。正使、副使、箱持の一行が、昔は騎乗で大和へ向かった。『住吉信仰』(真弓常忠著)には、「玉垣をめぐらした中に樫の木があり、その根元より採取します」とある。左写真がその場所か?

延喜式神名帳大和國に記載の山口神社十四社は以下の通りです。
夜支布山口神社【やぎう】、伊古麻山口神社【いこま】、巨勢山口神社【こせ】、鴨山口神社【かも】、当麻山口神社【たいま】、大坂山口神社【おさか】、吉野山口神社【よしの】、長谷山口神社【はせ】、忍坂山口神社【おしさか】、飛鳥山口神社【あすか】、畝火山口神社【うねび】、石村山口神社【いわれ】、耳成山口神社【みみなし】、都祁山口神社【つげ】


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home   作成:2011.11.24