大元宮【だいげんぐう】(京都市左京区吉田神楽岡町)

斎場所大元宮

斎場所大元宮は、吉田神社の末社であります。吉田神社は現在の京都大学の敷地一帯にあったのですが、応仁の乱で消失したあと、現在地に移されました。そして文明16年(1484年)、吉田神社境内の南方に大元宮が設けられました。「吉田神道」を創唱した吉田兼倶【かねとも】が、その理想を形にあらわしたものと言われております。大元宮は、もともと吉田神社の社家である吉田邸内にあったと伝えられております。

大元宮本殿

屋根の妻の部分には「日本最上日高日宮」と書かれた額が、正面扉の上には「日本国中三千餘座天神地祇八百万神」と書かれた額が掲げられている。
境内看板
斎場所大元宮【さいじょうしょだいげんぐう】

 天神地祇八百万神をまつる大元宮を中心とし、周囲に伊勢二宮をはじめ、全国の延喜式内社三一三二座を奉祀する。
 もと神職卜部(吉田)家邸内にあったのを文明十六年(一四八四)吉田兼倶がここに移建したもので、吉田神道の根本殿堂をなすものである。天正十八年(一五九〇)神祇官八神殿も社内後方に移され、江戸時代より明治四年(一八七一)に至るまで朝廷の奉幣使派遣のとき神祇官代としてその儀式を執行した。
 本殿(重要文化財)は慶長六年(一六〇一)の建築で、正面八角に六角の後方を付し屋根は入母屋造・茅葺、棟には千木をあげ、中央に露盤宝珠を置き、前後に勝男木をおく特殊な構造をもっている。この形式は神仏習合(神道と仏教の折衷調和)、陰陽五行(万物は陰と陽の二気によって生じ、火木は陽、金水は陰、土はその中間にあるとし、これらの消長により大地異変・災事・人事の吉凶を説明)などの諸説を総合しようとした吉田神道の理想を形に現わしたものといわれる。
 当社に参詣すると全国の神社に詣でたものと同じ効験があるとして、毎年節分の日を中心に前後三日間行われる節分祭には多数の参詣者で賑わう。

                           京都市

祭場所大元宮本殿には、八百万の神が祀られている。



大元宮本殿の屋根 ななめ後方から見た本殿
千木は前方(南側)が内削【うちそぎ】、後方(北側)が外削【そとそぎ】になっている。棟に置かれた勝男木【かつおぎ】も独特だ。南半分は丸材を3つ重ねたものが3組置かれている。北半分は角材が2組置かれている。
そして棟の中央部には露盤宝珠が取り付けられている。
斜め後方(北東側)から見た本殿。
入母屋造の八角形の本殿に六角形の後房がついた独特のかたちをしている。

千木の先が水平に切られているものを内削【うちそぎ】という。伊勢神宮の内宮正殿と同じかたちです。
千木の先が垂直に切られているものを外削【そとそぎ】という。伊勢神宮の外宮正殿と同じかたちです。

露盤宝珠

露盤宝珠





延喜式内3132社 延喜式内3132社

本殿の両サイドには、全国の延喜式内3132社が並ぶ。
(写真右、奥に東神明社の燈籠が見える。)


伊賀の延喜式内25社
写真中央、額に「伊賀国中二十五座神」と記載されている

伊賀の二十五座とは以下を言います。
陽夫多神社【やぶた】・宇都可神社【うつか】・波太伎神社【はたき】・須智荒木神社【すちあらき】敢國神社【あえくに】・佐々神社【ささ】・穴石神社【あないし】・ 都美恵神社【つみえ】・眞木山神社【まきやま】・小宮神社【おみや】・鳥坂神社【とりさか】・阿波神社【あわ】・葦神社【あし】・木根神社【きね】・田守神社【たもり】・ 比地神社【ひち】・大村神社【おおむら】・比々岐神社【ひびき】・比自岐神社【ひじき】依那古神社【いなこ】猪田神社【いだ】(猪田)猪田神社【いだ】(下郡)・高瀬神社【たかせ】・坂戸神社【さかと】・名居神社【ない】宇流冨志禰神社【うるふしね】

ということで、全体で3132座の神々がお祀りされております。





八神殿跡
本殿後方一段高くなった所に八神殿があった。
看板直後の空き地に、八つの祠が東西一列に並んでいた
ことが、都名所図会から見て取れる。
(写真右奥は東神明社)
境内看板

神祇官
八神殿跡
天正十八年(西暦一、五九〇)奉斎
明治四年 (西暦一、八七一)宮中に遷座
神産日神【かみむすびのかみ】
高御産日神【たかみむすびのかみ】
玉積産日神【たまつめむすびのかみ】
生産日神【いくむすびのか】
足産日神【たるむすびのかみ】
大宮賣神【おおみやのめのかみ】
御食津神【みけつのかみ」
事代主神【ことしろぬしのかみ】

天皇の身辺守護のための八神殿は、宮中の神祇官に祀られていました。応仁の乱で神祇官が消失したあと形ばかり再建されましたが、豊臣秀吉がその場所に聚楽第を建てることになり、天正18年(1590)大元宮に移されました。明治に入って八神殿が皇居に移されるまで、天皇が行う祭祀が大元宮で行われました。





西神明社 東神明社
西神明社  祭神:豊受大神【とようけおおみかみ】
神明造の社殿の千木は外削になっている。
鳥居の額には「外宮宗」の文字。
東神明社  祭神:天照大神【あまてらすおおみかみ】
神明造の社殿の千木は内削になっている。
鳥居の額には「内宮源」の文字。
この鳥居は内宮源鳥居と言われる珍しいもの

応仁の乱に始まる国の乱れから、伊勢の内宮と外宮の間に「檀那」争奪をめぐる武力争いが起こります。その期に乗じて吉田兼倶は、伊勢の神々は血で穢れた伊勢の地を嫌い大元宮に降臨したと宣伝し、大元宮に内宮と外宮を祀ることに成功します。伊勢神宮側は当然認めておりません。認めないというか、猛烈な反発がありました。毎年伊勢神宮に派遣される勅使随行に卜部氏の人が加わる慣例が古来からありましたが、この出来事があったあと、伊勢神宮側は吉田家を含む卜部氏の参加を明治維新まで拒否し続けました。(吉田氏は元は卜部氏でした。吉田神社の祭祀をあづかり、のちに神社名を苗字としました。)





天津磐境 境内看板

天津磐境【あまついわさか】 日本書紀に天兒屋根命【あめのこやねのみこと】・太玉命【ふとたまのみこと】天津神籬【あまつひもろぎ】及天津磐境【あまついわさか】たてて国の弥栄【いやさか】祈り八神を斎【いわ】ひ奉るとある。神社祭祀の起源がここにあるといわれる。

大元宮はお正月の3日間、節分祭の2月2日・3日、毎月1日のみ内部拝観が可能です。私の参拝は2006年4月1日、2度目です。1度目は内部に入れませんでした。大元宮は、吉田兼倶が自らの思想を具現化したと言われる、すごい建物です。神社で「すごい!」と感じる建物は沢山ありますが、大元宮は、数百年前にこれを発想したことがすごいし、実現したことがすごい。(大元宮を知った時、なぜか「栄螺堂」が頭に浮かびました。)
吉田兼倶の宗源一実神道【そうげんいちじつしんとう】は、本地垂迹説をひっくり返したもののようです。本地垂迹説は、仏が神の姿をかりて日本の衆生を救うという考えですが、宗源一実神道は、日本の神々が本体で、唐・天竺では仏や聖人となって人々を救済するのだという考え方です。吉田兼倶、ただ者ではないようです。

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home   更新:2008.04.06 作成:2008.02.27